【リコリコSS】常連客だけが知る、千束・たきな・クルミの変化【ファンアート】

SSあらすじ|常連客が見守った喫茶リコリコの三人

八月下旬の喫茶リコリコ。

現在の千束、たきな、クルミは、短い言葉と視線だけで、忙しい店内を自然に回しています。

けれど、たきなが店へ来たばかりの頃は、コーヒー一杯の注文さえ、三人の意見が噛み合いませんでした。

そんな三人を変えたのは、ある常連客から頼まれた結婚記念日の小さなサプライズ。

予定より早く訪れた妻、突然の夕立、崩れていく計画――。

これは、三人のぎこちなかった時期と、本人たちも気づいていない変化を、いつもの席から見守ってきた常連客の物語です。

作品の詳細は、『リコリス・リコイル』公式サイトもご覧ください。


リコリコ SSの挿絵。夕立の喫茶リコリコで、7分のカウントダウンに合わせて連携する錦木千束、井ノ上たきな、クルミ

1.最近の三人は、ほとんど言葉を使わない

最近の喫茶リコリコでは、あの三人が仕事中に交わす言葉が、ずいぶん少なくなった。

別に、仲が悪くなったという意味ではない。

むしろ逆だ。

八月下旬の日曜日。

昼時の店内は、遅い昼食を取る客と、涼を求めて入ってきた観光客で混み合っていた。

入口の扉が開くたび、夏の盛りより少しだけ涼しくなった風が入り、カウンターの端に飾られた淡い紫色の花を揺らしている。

千束
「たきな、三番お願い」

千束ちゃんがそう言ったときには、たきなちゃんはすでに三番テーブルへ向かっていた。

手にはアイスコーヒーが二つ。

片方はミルク入りで、もう片方はブラックだ。

注文票を確認した様子はない。

千束ちゃんがカウンターの奥へ一瞬だけ目を向ける。

たきなちゃんも一瞬だけ目を返す。

それだけで、次に必要なものが伝わったらしい。

千束
「クルミ、チーズケーキあと何個?」

クルミ
「通常サイズは三。小さく切れば五」

千束
「それは四ってこと?」

クルミ
「お前の良心次第だな」

千束
「じゃあ五!」

たきな
「四です」

たきなちゃんが即座に訂正した。

その間にも、奥のモニターには午後の予約状況と、近隣の降雨予測が静かに表示されている。

クルミちゃんは端末から顔を上げず、冷蔵庫の在庫と、店の外を歩く人の流れを同時に見ているようだった。

新しく来た客が、その様子を眺めながら感心したように言った。

「皆さん、ずっと一緒に働いているんですか?」

私は危うく、コーヒーを吹き出しかけた。

妻が隣から、不思議そうに私を見る。

「あら。どうしたの?」

「いや、少し昔を思い出してね」

私はカップを置いた。

現在の三人だけを見れば、そう思うのも無理はない。

千束ちゃんが人を見て、たきなちゃんが状況を整え、クルミちゃんが必要な情報を拾う。

誰かが指示を出すというより、三人で一つの流れを作っている。

だが、最初からこうだったわけではない。

むしろ、最初はひどかった。

本当に、ひどかった。

何しろ、コーヒーを一杯頼むだけで、三人分の答えが出てきたのだから。#top


2.三人いれば、注文ひとつが三倍ややこしい

あれは、たきなちゃんが店で働き始めて間もない頃だった。

同じ八月下旬でも、今年よりずっと暑かったように思う。

窓の外では、蝉が命の残り時間をすべて声量へ変換しているかのように鳴いていた。

扉が開けば熱気が入り、閉まれば冷房の風が戻る。

店内は涼しいはずなのに、カウンターの向こうだけは妙に騒がしかった。

私はいつもの席へ座り、軽い気持ちで言った。

「いつものを頼むよ」

この言葉を、私は何年も使ってきた。

顔なじみの店で使えば、少しだけ常連らしい気分になれる便利な言葉だ。

その日までは、そう思っていた。

千束
「了解! 今日は暑いから、アイスにしとく?」

その横で、注文端末を持っていたたきなちゃんが止まった。

たきな
「“いつもの”では、注文内容を特定できません」

千束
「分かるよ。いつも来てくれてるもん」

たきな
「直近の注文内容と、現在希望している注文内容が一致する保証はありません」

千束
「でも今日は暑いし、アイスでしょ」

たきな
「それは“いつもの”ではなく、千束の提案です」

千束
「細かいなあ」

たきな
「注文の確認です」

カウンターの奥から、クルミちゃんが顔を出した。

クルミ
「過去三十回の注文履歴なら、ホット二十二、アイス八だぞ」

たきなちゃんは小さくうなずいた。

たきな
「では、確率の高いホットコーヒーで」

千束
「いやいや、今日は絶対アイスだって!」

たきな
「千束の感覚より、記録の方が信頼できます」

千束
「でも顔がアイスって言ってるもん」

私は思わず自分の頬を触った。

長く生きてきたが、コーヒーの温度を顔に表示した覚えはない。

クルミ
「顔から飲み物が分かるわけないだろ」

私は心の中で、ようやくこちら側の人間が現れたと安堵した。

しかし、クルミちゃんは続けた。

クルミ
「体表温度と発汗量を取れば、多少は推定できるかもしれないけどな」

こちら側ではなかった。

たきな
「必要ありません。過去の注文履歴から、ホットコーヒーを提供します」

千束
「絶対アイスだってば」

クルミ
「じゃあ、両方出せばいいんじゃないか?」

千束
「それだ!」

たきな
「なぜそうなるんですか」

三人の声が、窓の外の蝉と競い始めた。

私はしばらく待った。

誰かがこちらへ、「どちらになさいますか」と聞いてくれるのを。

結局、聞かれなかった。

数分後。

私の前には、千束ちゃんが持ってきたアイスコーヒーと、たきなちゃんが持ってきたホットコーヒーが並んだ。

そして、その横へクルミちゃんが紙を一枚置いた。

過去三十回分の注文履歴だった。

クルミ
「参考資料だ」

「何の?」

クルミ
「次から自分で決めるための」

聞かれなかったのは、私だけだった。

とはいえ、これはまだ小さな方だった。

別の日には、千束ちゃんが「いつも来てくれるから」とプリンをサービスし、たきなちゃんが「無償提供の根拠がありません」と伝票へ追加し、クルミちゃんが「賭けるか。会計時に気づくかどうか」と言い出した。

私は気づいた。

さらに別の日には、たきなちゃんが客の移動距離を短くするために席を詰め、千束ちゃんが「でも、この人は窓際が好きだから」と元へ戻し、クルミちゃんが端末へ何やら入力した。

「何をしているんだい?」

クルミ
「次から座席の好みも記録する」

「最初からそうすればいいのでは?」

クルミ
「本人たちが面白いから、しばらく見てた」

クルミちゃんは、正解を知っていても、聞かれるまでは教えなかった。

三人は、決して仲が悪いわけではなかった。

千束ちゃんは、たきなちゃんをよく連れ回していた。

たきなちゃんも、文句を言いながら結局はついていった。

クルミちゃんは興味がなさそうな顔をしながら、二人の失敗を誰より細かく記録していた。

ただ、三人とも自分の方法で問題を解決しようとしていた。

千束ちゃんは人を見る。

たきなちゃんは手順を見る。

クルミちゃんは情報を見る。

そして、誰も他の二人が見ているものを、自分の答えに入れようとはしていなかった。

その頃の私は、それを単に賑やかな店だと思っていた。

三人が変わるきっかけに、自分が関わることになるとは考えてもいなかった。#top


3.常連客からの秘密の依頼

その年の八月、私たち夫婦は結婚記念日を迎えることになっていた。

節目と呼ぶほど大げさな年数ではない。

だが、妻とは長い間、この店へ通っていた。

喧嘩をした日も、仲直りした日も、何も起きなかった日も、私たちは同じ窓際の席でコーヒーを飲んだ。

だから、その年は少しだけ何かをしたいと思った。

妻が来ていない時間を選び、私は三人へ相談した。

「ここで、ちょっとしたお祝いをしたいんだ」

千束
「結婚記念日?」

千束ちゃんの目が輝いた。

その時点で、私は少し嫌な予感がした。

「大げさなものでなくていいんだよ。花と、ケーキが少しあれば」

千束
「任せて!」

嫌な予感は確信へ変わった。

たきなちゃんはすでに端末を操作していた。

たきな
「奥様の到着予定時刻は?」

「午後五時くらいかな」

たきな
「“くらい”では困ります」

「五時前後だよ」

たきな
「誤差は?」

「夫婦の予定に誤差を聞かれたのは初めてだね」

たきな
「では、到着時刻を確認する連絡をしてください」

「それをしたら、驚かせられないだろう」

たきな
「では、移動経路から予測します」

一方、千束ちゃんは紙へ何かを描き始めていた。

千束
「入口から花びらを敷いて、ここで照明を落として、ケーキが登場して……」

「大げさにしなくていいんだ」

千束
「大丈夫、大丈夫。紙吹雪は少なめにするから」

「紙吹雪が存在する時点で大げさなんだよ」

奥ではクルミちゃんが、私たち夫婦の過去の写真を画面へ並べていた。

クルミ
「昔の写真、これで全部か?」

「どこから見つけたんだい?」

クルミ
「公開されてるやつだけだ。心配するな」

心配の方向が変わっただけだった。

クルミ
「映像は十二分くらいでいいか」

「長くないかい?」

クルミ
「まだ仮編集だ。昔の来店日時と、その日の天気も入れれば二十分になる」

「短くする方向で頼むよ」

私のささやかな依頼は、十分もしないうちに、

千束ちゃんの大規模な祝賀会。

たきなちゃんの分刻みの進行計画。

クルミちゃんの記念ドキュメンタリー。

この三つへ分裂していた。

たきな
「千束。紙吹雪は清掃工程に含まれていますか?」

千束
「楽しい気持ちで片付ければ、掃除もイベントだよ!」

たきな
「イベント終了後に客を働かせるつもりですか?」

クルミ
「たきなの計画も大概だぞ。乾杯の角度まで指定してある」

たきな
「飲み物をこぼさないためです」

クルミ
「夫婦の乾杯に安全規格を持ち込むな」

私は三人のやり取りを眺めながら、依頼を撤回するべきか悩んだ。

だが、千束ちゃんは楽しそうだった。

たきなちゃんは真剣だった。

クルミちゃんも、文句を言いながら映像を作り続けていた。

三人とも、私たち夫婦のために動いてくれている。

ただし、向いている方向が三つに分かれているだけだった。

私は祈った。

当日は、何事も起こりませんように。

だいたい、こういう祈りは届かない。#top


4.予定より二十分早く、妻が来た

記念日当日の午後。

空は朝から重い色をしていた。

遠くで雷が鳴っていたが、千束ちゃんは窓の外を見て言った。

千束
「すぐやむんじゃない?」

クルミちゃんは端末から目を上げなかった。

クルミ
「四十分後に強い雨。降水確率八十七パーセント」

千束
「残り十三パーセントに賭けよう」

クルミ
「賭けるな」

たきな
「予定どおり進めます」

たきなちゃんは、机の上へ置いた進行表を確認した。

たきな
「奥様の到着は十七時。現在十六時二十五分。準備時間は十分あります」

私は花束を持って、店の奥にある仕切りの裏へ隠れていた。

計画では、妻が席へ着いたところで私が出ることになっている。

紙吹雪は、私の強い希望によって却下された。

完全な却下ではなく、千束ちゃんがポケットへ少量隠しているように見えたが、私は見なかったことにした。

十六時三十八分。

雷が近くで鳴った。

続いて、大粒の雨が窓を叩いた。

通りを歩いていた人々が、次々に軒下へ駆け込む。

クルミちゃんの予測より二分早い。

クルミ
「誤差の範囲だ」

本人は落ち着いていた。

問題は、妻がその中にいたことだった。

扉のベルが鳴る。

「ひどい雨ね」

聞き慣れた声がした。

私は仕切りの裏で固まった。

妻は、予定より二十二分早く店へ来た。

たきなちゃんの進行表には、おそらく存在しない種類の時間だった。

店内は準備の途中だった。

壁の飾りは半分だけ。

テーブルクロスは片側しか整っていない。

ケーキには「これからもよろし」の文字までしか書かれていない。

モニターには、私たち夫婦の若い頃の写真が大きく映っていた。

「……あら?」

妻が首を傾げた。

千束ちゃんが、写真の前へ飛び込んだ。

千束
「あっ、これは、その!」

たきなちゃんがモニターを消す。

クルミちゃんが奥から顔を出す。

三人の動きは速かった。

速かったが、速いだけだった。

千束
「今日は、その……コーヒー豆がすごく豆で!」

妻は黙った。

私も仕切りの裏で黙った。

雨音だけが、やけに大きく聞こえた。

たきな
「千束。それでは説明になっていません」

千束
「分かってるよ!」

クルミ
「むしろ何か隠していると宣言しているようなものだな」

千束
「じゃあクルミが何とかしてよ!」

クルミ
「私はコーヒー豆を豆以上のものにはできない」

「何か隠しているの?」

妻が尋ねた。

三人が止まった。

私は仕切りの裏で花束を握り締めた。

もう出ていくべきかもしれない。

計画は失敗だ。

そう思ったときだった。

千束ちゃんが、いつものように一人で前へ出ようとした。

千束
「いやいや、何も隠してないですよー。ね、たきな?」

たきなちゃんは千束ちゃんを見た。

以前なら、その場で説明の誤りを訂正していたはずだ。

しかし、その日は違った。

たきな
「千束。時間を作ってください」

千束ちゃんも、すぐには冗談を返さなかった。

千束
「どれくらい?」

クルミちゃんの指が端末を走った。

次の瞬間、店の奥にあるモニターへ大きな数字が表示された。

07:00

千束ちゃんとたきなちゃんの耳元で、小さな電子音が鳴る。

クルミ
「七分。旦那はそこにいる。花束もある。七分後に出せ」

仕切り越しに居場所を明かされた私は、少し肩身が狭くなった。

千束
「了解!」

そして、カウントダウンが始まった。#top


5.七分間だけ、三人がひとつになる

夕立の窓を背に、常連客の妻と笑顔で会話して時間を作る錦木千束

「せっかく雨宿りに来たんですし、少しお話しません?」

千束ちゃんは、何事もなかったように妻をカウンター席へ案内した。

先ほどまでの焦りは、もう顔に残っていない。

千束
「最近、旦那さんとはどうです?」

「どうって、いつもどおりよ」

千束
「その“いつもどおり”が一番難しいんですよねえ」

妻が笑った。

「千束ちゃんに夫婦の何が分かるの?」

千束
「分かりません!」

即答だった。

千束
「でも、分からないから聞きたいです」

千束ちゃんは、妻の前へ水を置いた。

千束
「二人で最初にこの店へ来た日のこと、覚えてます?」

妻は少し驚いたようだった。

そして、ゆっくり話し始めた。

初めて店へ来た日のこと。

夫婦で道に迷ったこと。

私がメニューをなかなか決められず、妻を呆れさせたこと。

私は仕切りの裏で、花束を持ったまま聞いていた。

話の内容には、一部異議があった。

特に、メニューを決められなかったのは妻の方だった気がする。

しかし、今は反論できない。

モニターの数字は減り続けている。

05:42

その間に、たきなちゃんは準備を組み直していた。

千束ちゃんが用意した大量の飾りを、迷わず箱へ戻す。

自分の作った細かな進行表も、途中で折り畳んだ。

残したのは、白いテーブルクロス。

小さな花瓶。

私たちがいつも使っている二つのカップ。

そして、文字の曲がったケーキ。

千束
「たきな、右の飾りは?」

たきな
「使いません」

千束
「即答!」

たきな
「時間がありません」

千束
「ケーキの文字は?」

たきな
「このままです」

千束
「『これからもよろし』で終わってるけど?」

たきな
「残り時間では修正する方が危険です」

奥からクルミちゃんの声が飛ぶ。

クルミ
「残り四分。旦那は仕切りの裏で花束を握り潰しかけてる」

私は慌てて力を緩めた。

見えているらしい。

クルミちゃんは、長い記念映像を削除していた。

二十分近くあった映像が、見る間に短くなる。

写真も次々に消されていく。

最後に残ったのは、一枚だけだった。

私たち夫婦が初めてこの店へ来た日に撮った写真。

今より少し若い私たちが、窓際の席で笑っている。

千束
「長い方が感動するんじゃないの?」

クルミ
「長いと途中で飽きる。一枚で十分だ」

02:18

雨の音は、少し弱くなっていた。

妻は千束ちゃんとの会話に夢中になっている。

「それでね、あの人ったら初めて来た日に、砂糖を三つも入れたのよ」

千束
「三つ!」

「緊張してたのね」

私は仕切りの裏で、また異議を申し立てたくなった。

あれは砂糖の容器が固まっていて、二つ分が一度に出ただけだ。

クルミ
「残り二分」

たきなちゃんがカップの向きを揃える。

一度、完全に左右対称に置いた。

それから少し考え、片方だけわずかに妻側へ寄せた。

普段、妻がそうするからだ。

私はその仕草を見た。

たきなちゃんは、いつからそれを知っていたのだろう。

クルミ
「残り一分」

照明が少しだけ落ちる。

モニターへ、あの日の写真が映る。

小さな音量で、妻の好きな曲が流れ始めた。

派手な演出ではない。

千束ちゃんの紙吹雪もない。

たきなちゃんの厳密な進行表もない。

クルミちゃんの長い映像もない。

だが、その場には、三人がそれぞれ残したものがあった。

クルミ
「残り三十秒。千束、締めろ」

千束
「了解」

千束ちゃんは妻へ手を差し出した。

千束
「じゃあ、そろそろいつもの席へどうぞ」

妻が振り向く。

その瞬間、モニターの数字がゼロになった。

私は仕切りの陰から出た。

少し形の崩れた花束を持って。#top


6.少し失敗した結婚記念日

少し失敗した結婚記念日の席を見つめ、わずかに口元を緩める井ノ上たきな

「あなた?」

妻は驚いた顔で私を見た。

テーブルの飾りは少し曲がっていた。

ケーキには、

これからもよろし

と書かれていた。

「よろしく」の最後の一文字がない。

これからも、よろし。

どこか古風な判定のようだった。

千束
「やっぱり『く』だけ書き足さない?」

たきな
「今触る方が崩れます」

千束
「チョコペンあるよ?」

たきな
「千束は触らないでください」

千束
「私だけ禁止なの?」

たきな
「過去の実績から判断しています」

クルミ
「『これからも、よろしい』って意味にすればいい」

千束
「急に上から目線になったね」

妻が吹き出した。

私は用意していた言葉を、半分ほど忘れた。

長い感謝の言葉を考えていたはずなのだが、妻が笑っているのを見たら、どうでもよくなった。

「これからも、一緒にここへ来てくれるか」

結局、口から出たのはそれだけだった。

妻は、曲がったケーキと、小さな花と、モニターに映った昔の写真を見た。

そして私を見た。

「ここまで準備しなくても、来るつもりだったわよ」

「そうか」

「でも、ありがとう」

妻の声に、千束ちゃんが満足そうに笑った。

私は三人へ頭を下げた。

「ありがとう。三人とも、見事だったよ」

たきな
「当初の計画とは、かなり異なります」

クルミ
「成功率で言えばギリギリだな」

千束
「でも、ちゃんと笑ってたでしょ?」

たきなちゃんは、すぐには答えなかった。

窓の外を見る。

雨は、もう小降りになっていた。

次に、妻の笑顔を見る。

それから、自分の手にある進行表へ目を落とした。

小さく息を吐く。

そして、ほんの少しだけ口角を上げた。

大きな笑顔ではない。

見逃そうと思えば、簡単に見逃せる程度の変化だった。

たきな
「……そうですね」

たきな
「それなら、成功です」

千束ちゃんが嬉しそうに、たきなちゃんの肩へ腕を回した。

千束
「でしょー?」

たきな
「近いです、千束」

千束
「成功した仲間同士なんだからいいじゃん」

たきな
「関係ありません」

千束
「クルミもおいで!」

クルミ
「断る」

そう言いながら、クルミちゃんはケーキを切り分けるための皿を、人数分用意していた。

妻は私の隣で笑っていた。

私はその日初めて、三人が同じものを見ているように感じた。

千束ちゃんは、妻の笑顔を見ていた。

たきなちゃんも、妻の笑顔を見ていた。

クルミちゃんはたぶん、全員が笑っていることを確認していた。

見方は違う。

それでも、答えは一つになっていた。#top


7.失敗のあとから、三人は互いを見るようになった

それから、三人は少しずつ変わった。

もっとも、本人たちは認めないかもしれない。

千束ちゃんは相変わらず、急に新しいことを始める。

千束
「今日は暑いから、店内で夏祭りをやろう!」

たきな
「目的は何ですか?」

以前のたきなちゃんなら、まず中止を求めただろう。

だが、その日は違った。

千束
「お客さんに楽しんでもらうこと!」

たきな
「必要な準備時間は?」

千束
「一時間!」

たきな
「規模を三分の一にしてください。それなら可能です」

千束
「半分!」

たきな
「三分の一です」

千束
「間を取って四割!」

クルミ
「計算上は三分の一と大して変わらないぞ」

三人は同じ性格になったわけではない。

千束ちゃんは、相変わらず思いつきで動く。

たきなちゃんは、相変わらず正確さを求める。

クルミちゃんは、相変わらず頼まれてもいないのに余計な一言を入れる。

ただ、千束ちゃんは何かを始める前に、たきなちゃんを見るようになった。

たきなちゃんは否定する前に、目的を聞くようになった。

クルミちゃんは、聞かれる前に必要な情報を出すようになった。

ある日、千束ちゃんが混雑した店内で皿を持ちすぎていた。

千束
「大丈夫、大丈夫!」

そう言いながら、明らかに大丈夫ではない角度で皿が傾いていた。

たきなちゃんが、黙って半分を受け取った。

千束ちゃんも、以前のように取り返そうとはしなかった。

千束
「お願い」

それだけ言った。

別の日には、たきなちゃんが常連客の注文を聞きながら、相手が何度もメニューのデザート欄を見ていることに気づいた。

たきな
「食後にケーキを追加しますか?」

「でも、今日は少し食べすぎで」

たきな
「小さいサイズにもできます」

クルミ
「通常サイズは残り三。小さくすれば五だ」

「じゃあ、小さいのを一つ」

客が嬉しそうに言う。

たきなちゃんは、注文票へ追加した。

数字だけを見ていた頃なら、出なかった提案だろう。

そしてクルミちゃんも、次第に店内へ出てくる時間が増えた。

本人は「端末を取りに来ただけ」「菓子が余っていたから」「回線がこっちの方が速い」と言い張った。

だが、常連客の好みを誰より正確に覚えていた。

ある日、私は尋ねた。

「最近、よく店を手伝うね」

クルミ
「別に手伝ってない」

クルミちゃんはそう言いながら、私の前へ新聞を置いた。

私がいつも読む面を上にして。

変わったのは、たきなちゃんだけではなかった。

千束ちゃんも、クルミちゃんも変わっていた。

違う人間になったのではない。

違うまま、互いの違いを使えるようになったのだ。#top


8.常連客だけが知っている

「そんなにひどかったんですか?」

現在の店内。

新しい客が、興味深そうに私へ尋ねた。

私は目の前のコーヒーを見た。

今日はホットだった。

外はまだ暑い。

だが、扉が開くたびに入ってくる風には、夏の終わりが混じっている。

私は朝から少し冷房に当たりすぎていて、冷たいものを飲む気分ではなかった。

それを口にした覚えはない。

たきなちゃんは、私の過去の注文を覚えている。

千束ちゃんは、私がメニューを開かず、温かいカップを持つ隣の客へ視線を向けたのを見ていた。

クルミちゃんは、店内の温度が昨日より二度低いことを確認していた。

その三つが重なって、今日の一杯になったのだろう。

「昔はね」

私は言った。

「コーヒーを一杯頼むだけでも大変だったんですよ」

三人が同時にこちらを向いた。

千束
「えー、そんなにひどかった?」

たきな
「誇張です」

クルミ
「いや、記録は残ってるぞ」

店内奥のモニターが切り替わった。

そこには、過去の注文記録が表示されていた。

ホットコーヒー、一杯。

アイスコーヒー、一杯。

過去三十回分の注文履歴、一部。

提供先は、すべて私の席だった。

たきな
「……これは業務上の試行錯誤です」

たきなちゃんが少し目を逸らした。

千束
「成長したってことだね!」

千束ちゃんは、なぜか誇らしそうだった。

クルミ
「まず反省しろ」

私はコーヒーを一口飲んだ。

ちょうどよい温かさだった。

最初の頃、三人はそれぞれ自分の正しさを持ってきた。

千束ちゃんは、私が欲しいと思ったものを。

たきなちゃんは、記録から正しいものを。

クルミちゃんは、判断するための情報を。

今は、誰か一人の正しさではない。

三人で一杯を作っている。

本人たちは、自分たちがどれほど変わったか知らないのかもしれない。

毎日少しずつ変わったのだから、気づかなくても無理はない。

だが、刺すような日差しと、激しい蝉の声の中で、ホットとアイスを同時に出された常連客には、よく分かる。

クルミ
「それで、今日の注文は合ってるんだろうな?」

「ええ」

私は答えた。

「今日は、これが飲みたかった」

千束ちゃんが笑った。

たきなちゃんは、ほんの少し安堵したように息を吐いた。

クルミちゃんは、当然だと言いたげに端末へ視線を戻した。

その直後、入口の扉が開いた。

涼しい風が店内を通り抜け、カウンターの小さな花を揺らす。

新しい客が席へ座り、メニューを開いた。

「おすすめはありますか?」

千束ちゃんが勢いよく手を挙げる。

千束
「はいはい! 今日は絶対――」

たきな
「千束。まず、好みを聞いてください」

クルミ
「過去の注文履歴はないぞ」

千束ちゃんは少し考え、新しい客へ笑いかけた。

千束
「じゃあ、今日はどんな気分ですか?」

私は妻と顔を見合わせた。

三人の変化を知っているのは、たぶん常連客だけだ。

けれど、その変化の恩恵を受けるのは、これからこの店を訪れるすべての客なのだろう。

もっとも。

「甘いものが飲みたいです」

新しい客が答えると、千束ちゃんはすぐに身を乗り出した。

千束
「じゃあ、生クリーム三倍で!」

たきな
「多すぎます」

千束
「二倍!」

たきな
「通常量です」

千束
「間を取ろうよ、たきな!」

たきな
「取りません」

クルミちゃんがため息をついた。

クルミ
「結局、本人に聞け」

三人の声が重なる。

窓の外から、夏の終わりを惜しむような蝉の声が聞こえた。

息が合うようにはなった。

静かになったとは、誰も言っていない。


この記事に登場した錦木千束、井ノ上たきな、クルミのイラストは、BlueRabbit_Artのギャラリーページでも高画質でご覧いただけます。

喫茶リコリコの日常や、千束とたきなの関係を描いたほかのSS・ファンアートも、関連記事からぜひお楽しみください。

※本記事は『リコリス・リコイル』を題材とした非公式の二次創作SS・ファンアートです。原作者・制作会社・公式関係各社とは関係ありません。

上部へスクロール