夜寝る前に本を読み、ついウトウトしてしまった椎名真昼。
ふと気づくと、そこはアリスの世界に入り込んでいた。
天使様のアリス生活の物語です。
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プロローグ|金縁の微睡み
椎名真昼は枕元のスタンドを低めにして、紙の白さが目に刺さらないように気を配る。湯気の薄くなったカモミールの香りを確かめ、掛け布団の端をきちんと折り返す。ページの手触りはさらさらとして、指先の動きに呼吸が合っていく。
今日の一日を思い出しながら、真昼は心の中の棚を静かに片づける。洗面台の拭き跡、キッチンの布巾、窓の錠。順番に点検した安堵が体の奥に静かに沈み、まぶたの重みと仲直りができる。
「続きは……明日の朝に」
自分に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいたとき、挿絵の白うさぎが懐中時計を掲げて走り出す。真昼はその音を耳で追い、活字の行間ごとふっと落ちていく。紙の匂いが遠ざかり、布団の温度だけが近くなる。ページと夢の境目は、ティーカップの金縁みたいに、ほのかに光っていた。#top
第一章|お隣の天使様の丁寧な落下
気づくと、真昼は白いエプロンドレスに身を包んでいた。スカートの裾が風でふわりと持ち上がる。地面に近い草の匂いがして、遠くで時計の針がせかせかと進む。前方を白うさぎが駆けていく。
「お待ちくださいませ、少しだけ」
真昼がそう声をかけると、彼は一瞬だけ耳を揺らして加速する。裾を片手で押さえ、真昼は礼を失しない程度の速度で追いかける。やがて口を開いた井戸が現れ、覗き込んだ瞬間、体が軽く上向きに浮いて、そのまますとんと落ちていく。
落下は不思議と怖くない。壁際の棚から瓶がするすると滑ってくる。「DRINK ME」とラベルにある。真昼は栓を抜く前にひと呼吸おき、香りを確かめる。
「いただきます。ほんの少しだけ」
一口で体が縮み、もう一口で背が伸びる。サイズが変わっても、姿勢は崩さない。次に「EAT ME」と書かれた小さなケーキ。フォークが見当たらないから指で割る。
甘さが舌に広がるあいだ、真昼は扉の高さと自分の身長の釣り合いを測る。鍵は小さく、扉はさらに小さい。しゃがんで鍵穴を覗くと、チェス盤みたいな庭が見える。
「まずはご挨拶からですね」
扉越しにそうささやくと、風が返事のように髪を撫でた。#top
第二章|紅茶も、言葉も
庭に踏み出すと、長いテーブルが横たわり、帽子屋と三月ウサギが賑やかにしている。ティーカップ、ソーサー、ケーキスタンドはたくさんあるのに、配置はどこか落ち着かない。真昼は席につく前に、ポットの注ぎ口の向きを相手の利き手に合わせ、取っ手を少し内側に寄せる。
「失礼します。こちらの角度のほうが注ぎやすいと思います」
帽子屋が帽子のつばをぴょこんと上げて目を丸くする。
「おやおや、夢に来てまで作法を? 時間はぼくらと喧嘩中だ、礼儀を待ってはくれないよ」
「時間は怒らせたままだと冷めてしまいます。紅茶も、言葉も」
真昼は穏やかに答えて、蒸らしの時間を数える。三月ウサギが身を乗り出す。
「何秒? 何杯?」
「今日は香りを開かせたいので、蓋をして一分、それからもう一分。お砂糖はお好みですけれど、最初の一口は入れないで味を見てください」
三月ウサギは耳をぱたぱたさせて頷く。湯気に包まれた間だけ、ざわめきはやさしい休符になった。
帽子屋がからかうように尋ねる。
「君はどうしてそんなに気を配るんだい?」
「わたしは、誰かの朝や夜が穏やかに始まって穏やかに終わることが、いちばん嬉しいのです。だから、道具の向きと順番は、わたしの挨拶みたいなものです」
言ってから、少しだけ照れる。真昼は近所の人たちに天使様なんて呼ばれることがあるけれど、実のところやっているのは、こういう小さな整えごとばかりだ。
帽子屋が微笑みを浮かべると、真昼の意識は急に遠くにいってしまった。#top
第三章|湯気は号令の先に
帽子屋の微笑みから、真昼がふと我に返ると、そこは広場だった。
トランプの兵たちが行進して、薔薇の庭へ続く広場に人が集まる。ハートの女王が現れて、空気がぴんと張る。
「首をはねろ!」
鋭い号令に、真昼の喉も一瞬だけ固くなる。それでも足を一歩前に出し、トレイを胸の高さに保って、ゆっくりと会釈する。
「陛下、最初の一杯をどうぞ。熱いうちに召し上がってください。砂糖は控えめにしてあります。薔薇の香りがよく立ちますから」
女王は半眼で真昼を見て、それからカップの縁に唇を寄せる。湯気が頬を撫で、声の角が少し丸くなる。
「……悪くないわ」
「ありがとうございます。スコーンも焼きたてです。先にクリーム、その上にジャムでよろしければ」
女王はわずかに顎を引き、兵たちは合図を待つみたいに立ち尽くす。真昼は誰も急かさず、トングで一つずつ皿に取って回る。順番ができると、言葉にも順番が戻ってくる。
広場の中央に即席の裁判台が組まれ、誰もが同時に話し出しそうになる。帽子屋も三月ウサギも落ち着かない。真昼はトレイを軽く持ち直し、声の高さを半歩だけ下げる。
「お一人ずつ、おかわりとご一緒にお話しください。こちらの列から順に参ります。カップを返してくださった方からどうぞ」
配膳のルールを証言のルールに重ねると、広場のざわめきは小さな波に整列する。帽子屋が肩をすくめ、三月ウサギは耳でリズムを取る。女王はカップをソーサーに置いて、咳払いひとつ。
「それで——誰から?」
「陛下の右手側から始めます。お名前と、覚えていることを短くお願いします」
真昼は湯の減り具合を見ながら、ポットを交互に入れ替える。温度が落ちてきたら、蓋をほんの少し回して香りを逃がさない。カップの白、薔薇の赤、兵の黒。色の順番を目で追いかけると、心の中の針もまっすぐ進む。#top
第四章|最後のカチリ
証言が一巡して、真昼は空になったポットを置く。帽子屋が「時間は怒ったままさ」と冗談めかし、三月ウサギが「じゃあ三時で止めてしまおう」と笑う。女王が真昼に視線を寄越す。
「あなたは、なぜそんなふうに落ち着いていられるの」
「カップが熱いうちは、慌てないと決めているからです。慌てると、手元がぶれて香りが逃げますから」
言い終えると、白うさぎの懐中時計がぴたりと鳴った。カチリ、という小さな音。金縁がひときわ強く光って、周囲の色が薄いヴェールみたいにほどけていく。
「——あ」
声を出す前に、真昼は湯気の向こう側へ戻り始める。薔薇の赤も、帽子の影も、ソーサーの輪郭も、やわらかい白に吸い込まれていった。#top
終章|夢の温度、現実の順番
目を開けると、レースのカーテンがやさしく揺れている。枕元のティーカップには薄い輪が残り、栞は読みかけの場所を静かに挟んでいた。喉の奥に、夢で飲んだ紅茶の温度が微かに残っている気がする。
「……おはよう」
声は部屋の端まで届かないくらい小さい。それでも十分だった。真昼は布団を整え、窓の錠を確かめて、カーテンを片側にまとめる。朝の空気は少しひんやりして、台所まで歩く間に体が自然に目覚める。
ケトルに水を入れて火を点ける。カップとソーサーを重ね、ティーバッグではなく茶葉を選ぶ。タイマーを一分に合わせ、蓋をして、一分。夢の中と同じ手順。砂糖は最初の一口が終わるまで入れない。
トーストの焼き目を見て、バターの量を控えめにする。スクランブルエッグは火を止める直前にひとかけ落とす。林檎は薄く、芯の形が目立たないように。テーブルの上に配列のルールを作ると、不思議と心も座る。
「今日も、順番を守っていきましょう」
自分にだけ聞こえる声で、真昼はそう言う。夢の国はあっけなくほどけたけれど、残ったのは湯気の高さ、カップの重さ、手渡すときの視線の位置。現実の朝に移植できる要素は、思っていたより多い。
カップの金縁が、窓から差し込む光で小さく光る。真昼は一口、香りを確かめてから飲む。最初の一口は甘くない。でも、十分にやさしい。
真昼は立ち上がり、リボンの紐を結び直す。
「行ってまいります」
言葉が空気に溶けるのを待たず、靴音のテンポを整える。時間と喧嘩をしないで済むように、今日も最初の配列から始める。夢の温度と、現実の順番。その両方を、真昼は丁寧に保っていく。#top
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