天使様と呼ばれている椎名真昼は、人前で何でも完璧にこなさなくてはならないと仮面をつけて日々行動をしていた。それは求められている役割を追求するのは素の自分を表現することのできない彼女の弱さでもある。運動会の日、ある出来事をきっかけにその仮面が外れていく。
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プロローグ:ガラスの鈴
秋空の下の決意
十月の空は、嘘がつけないほど青く澄んでいる。 私は体操着のゼッケンを指でなぞり、きつく結び直した運動靴の紐を確かめる。グラウンドに満ちる歓声と乾いた土の匂い。そのすべてが、今日の私が演じるべき役割を告げていた。
――“天使様”。 周囲が好んでそう呼ぶ、完璧な私。
「大丈夫。やれるわ」
誰に言うでもなく呟き、私はすっと背筋を伸ばす。胸ポケットに忍ばせた絆創膏の感触だけが、ささやかな不安の在り処を示していた。練習で少し痛めた足首は、まだ鈍く疼くけれど、顔には決して出さない。 私が求められるのは、落ち着いた段取り、正確な結果、そして――揺るぎない微笑み。
(私が崩れなければ、誰も心配しない。心配させないのは、私なりの優しさの形だから)
期待という名のプレッシャー
校庭は色とりどりのクラス旗で賑わい、アナウンスの声が弾んでいる。プログラムに赤い印で記された「クラス対抗リレー アンカー:椎名真昼」の文字は、当然の記号のようだった。
招集所の影に立つと、足首の芯で針がひとつ、ちくりと回る。
(怖いのは痛みじゃない。私の“いつも通り”がほどけて、誰かの期待を裏切ってしまうこと)
胸の奥で、薄いガラスの鈴が鳴る。割れたりはしない。けれど、その音は確かにふるえていた。#top
第一幕:仮面の裏側
見られたくない弱さ
徒競走のスターター、綱引きの声援、係としての段取り。役割を重ねるほど、笑顔は滑らかになり、心臓は効率よく拍動する。
――けれど、招集の合間。器具庫の陰で、私はほんの一瞬だけ息を殺し、足首を強く押さえた。眉根が、意思に反してわずかに寄る。
「……椎名さん、大丈夫?」
振り向くと、クラスの隅でいつも静かに本を読んでいる彼女が立っていた。風で小さく揺れる、紺色の髪留め。
「ええ、なんでもないわ。ありがとう」
声の温度を保ったまま、完璧に整えられた微笑みを返す。彼女は、それ以上踏み込まなかった。
孤独を深める“大丈夫”
去ってゆく背中を見送りながら、安堵と同時に、空洞のような孤独が胸に残る。
(“なんでもない”は、便利な呪文。けれど、本当は誰も、私の“なんでもある”を知ろうとはしない)
私は何事もなかったかのように列に戻る。足首の疼きだけが、靴の中で小さな砂粒のように存在感を増していった。
日陰のベンチに腰を下ろした瞬間、足が微かに痙攣する。 グラウンドの熱気が、陽炎のように立ち昇っていた。
(彼――私を甘やかすのが上手な人――なら、きっと“無理すんなよ”と笑って、隣に座るのでしょうね。けれど今日の私は、完璧な『天使様』のまま。弱音は、役柄にない台詞だから)
呼吸を整えて立ち上がる。笛の音が空を裂き、午後の部が始まった。#top
第二幕:一枚の優しさ
リレー前に託された想い
クラス対抗リレーが近づく。第一走者の靴紐が強く結ばれるのを見届け、私はアンカーとして渡されるバトンの重さを指先で想像した。
そのとき、背後から小さく息を切らす気配。振り向けば、先ほどの彼女が、胸元を押さえながら駆け寄ってきた。
「あの、これ……! 気休めかもしれないけど」
彼女の掌から渡されたのは、未開封の冷却シート。指先に伝わるコンビニの袋の冷たさが、妙に具体的だった。
「わたし、さっきの顔……見ちゃったから。無理、しないでね」
そう言うと、彼女は照れたように笑って、応援の列に戻っていった。
フィルムを剥がす音が、喧騒の中でかすかに響く。足首に貼りつく冷たさは、痛みを消し去るほど強くはない。でも、熱で曇ったガラスを、指でそっと拭ってくれるくらいには、視界を澄ませてくれた。
(“なんでもない”と言ったのに、あなたは信じなかったのね。――嬉しい、なんて思ってしまう私は、ずるいわ)
“完璧”と“素顔”の境界線
第一走者が飛び出し、歓声がしぶきのように上がる。私は、最後尾の待機線で、静かに呼吸を整える。
(私は『天使様』として勝つの? それとも、私として走るの?)
その問いは、言葉になる前に肺から抜け、グラウンドの白線に吸い込まれていく。足首の冷却シートはまだひんやりとしていて、バトンはまだ、こちらへ向かってくる。
ポケットの中の携帯が、静かに眠っている気がした。彼からの「観てる」という短いメッセージが、幻のように脳裏を過ぎる。
(見栄でも虚勢でもない、いちばんまっすぐな顔で、あなたに届く走りをしたい)#top
第三幕:痛みごと、前へ
痛みごと、前へ
第三走者がコーナーを抜け、腕が伸びる。私は一歩ぶんだけ早く踏み込み、呼吸を合わせた。掌に落ちるバトンの硬さと重さ。
踏み出した足に、焼けるような痛みが走った。
(――行きなさい)
内側の誰かが、私に命じる。
私は速度を落とさない。落とせない。白線の一本一本が、約束の糸に見える。歓声が遠のき、内側で心臓が太鼓になる。
直線に入る。隣のレーンの足音が半歩ぶん迫る。冷却シートが足首で微かに剝がれかけ、その冷たい縁がかえって私を現実に繋ぎとめる。
(私は“完璧”じゃない。今日は、ちゃんと怖い。――でも、怖い私ごと、前へ!)
喉の奥が熱く、視界の端が滲む。最後の数歩で、私はほんのわずか身体を前に倒した。
テープが、頬をやさしく叩いた。
仮面を溶かした一筋の涙
膝が勝手に折れ、トラックに手をつく。砂の匂いが、すぐ近くでした。
「一位!」
紙吹雪のような歓声が降ってくる。肩にかかる手、差し出される水、背中をさする掌。
「――ありがとう」
いつもの“みなさんのおかげです”よりずっと短く、ずっと私の声のままの言葉が、口から零れた。
頬を伝ったのは、一筋の涙。驚くほど、温かい。
(泣いている私を、誰も責めない。むしろ、“よかったね”と笑ってくれる)
視界の向こう、応援の列で、彼女が両手を口に当て、目を細めている。紺の髪留めが、夕風にまた揺れていた。#top
終章:私に還る時間
保健室で知る温かさ
保健室のカーテンは、牛乳を薄めたような白だった。ベッドの縁に腰かけ、保冷剤を受け取る。 差し出された新しい冷却シートに、私はふと、さっきの彼女の掌を重ねて思い出した。
(“無理、しないでね”――あの言葉は、私が誰にも言えなかった、私自身の心の声だったのかもしれない)
ドアがそっと開き、数人のクラスメイトが「すごかった!」と顔をのぞかせる。私は、今度は隠さない顔で「ありがとう」と言えた。
ありのままを告げるメッセージ
携帯が震える。画面には、彼からの短い文。 「おつかれ。すごい走りだった」
――彼らしい、余白の多い褒め方。私は、返事を打つ。 「ありがとう。……少し、疲れちゃった」
送信した指先が、微かに震える。けれど、それは怖さではない。役を降りた後の、ただの私の体温だった。
夕暮れの坂道は、運動会のあとの静けさを抱いている。空は薄い琥珀色。 朝、完璧な役割として始まった一日は、ありのままの私を少しだけ許せる、心温まる一日に変わっていた。
ポケットの奥、貼り替えた冷却シートの空袋を指でなぞる。 小さな四角は、今日の私を冷やし、そして、確かに温めてくれたのだ。
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