SSあらすじ|孤独の正体
喫茶リコリコで過ごす穏やかな日常の裏で、リコリスとしての「完璧な成果」に固執し、自らをすり減らしていく井ノ上たきな。
命令違反で一度居場所を失った彼女は、二度と否定されないために、誰にも甘えず一人で立ち続けようとします。
けれど、そんな彼女の張り詰めた糸を、錦木千束の「不完全でも、明日も一緒にいたい」という切実な願いが、
少しずつ解きほぐしていきます。 戦場の硝煙と、夕暮れ時の紅茶の香りが織りなす、二人の心の距離の物語。
※本作は非公式の二次創作です。原作および公式関係者とは関係ありません。
リンク:リコリス・リコイル 公式サイト


1.完璧を求めるたきなの孤独
硝煙の匂いが、夏の湿った空気に混じっていた。
銃声の止んだ廃工場には、古い換気扇の軋む音だけが残っている。床には、武器を手放した武装犯たちが倒れていた。
「作戦完了。対象は全員制圧しました」
たきなは周囲へ銃口を巡らせ、安全を確認してから無線へ報告した。
呼吸は乱れていない。肩も上下していない。けれど、任務を終えた者が見せる安堵もなかった。
『確認した。最短経路での制圧、見事だった。相変わらず正確だな、井ノ上たきな』
「……ありがとうございます」
返事をしながら、たきなの視線は床へ落ちていた。
砕けたコンクリート。壁に残った弾痕。敵が倒れている位置。
頭の中で、突入から制圧までの流れをもう一度なぞる。
二人目への射撃が、想定より〇・三秒遅れた。右側の通路へ踏み込む直前、敵の位置を確認するために一度足が止まった。結果には影響していない。報告すべき損害もない。
それでも、たきなは腕の端末へ所要時間を表示させた。
前回より二・一秒短い。
だが、自分で設定した目標には〇・五秒届いていなかった。
「たきなー」
背後から、場違いなほど明るい声が飛んできた。
振り返ると、千束が倒れた鉄骨を軽々とまたいで歩いてくるところだった。笑ってはいたものの、その眉尻はわずかに下がっている。
「さっきの突っ込み方、さすがに危なくない?」
「敵の射線と配置は確認していました。あの経路が最短です」
「最短なのは分かるけどさ。左の人、たきなの予想より早く振り向いてたでしょ」
「対応できる範囲でした」
「できるかどうかじゃなくて――」
千束は途中で言葉を切った。
たきなの制服の袖に、コンクリート片で擦ったらしい白い跡がついている。そこへ伸ばしかけた手を、千束は一度止めた。
「あと半歩ずれてたら、当たってたかもしれないよ」
「当たっていません」
たきなは端末へ視線を戻した。
「次回は、敵が想定より早く反応する場合も計算に加えます」
「そういう話じゃないんだけどなあ」
千束が困ったように笑い、今度こそたきなの肩に手を置いた。
その手は温かかった。
「もっと自分のことも大事にしてよ。任務が終わっても、たきなが帰ってこなかったら困るんだから」
「私が止まれば、作戦全体が遅れます」
「だからって、たきなが無茶していい理由にはならないでしょ」
声は柔らかい。責める調子でもない。
それなのに、たきなの胸の奥で何かがざらついた。
かつて、自分は命令よりも仲間の救出を優先した。その判断は認められず、DAから外された。
結果を出しても、手順を誤れば居場所を失う。
ならば今度こそ、誰にも否定されない成果を出さなければならない。
千束にも、喫茶リコリコにも、自分を引き取ったことを後悔させないために。
「……口出しは不要です」
たきなは肩に置かれた手を静かに外した。
千束の指先が、宙に残る。
「私は、リコリスとしてするべきことをしただけです。次は、さらに確実に遂行します」
「たきな」
「撤収しましょう」
たきなはそれ以上の言葉を拒むように背を向けた。
歩きながら、無意識に自分の手首を強く握る。
任務は成功した。
それでも、胸の内に残った小さな誤差だけが、いつまでも消えなかった。#top

2.錦木千束の優しさを拒むたきな
いつもなら、千束が任務中に見つけた看板や、帰り道で見かけた犬の話まで一息に喋り続ける。たきなは適当に相槌を打ちながら、時折鋭く訂正を入れる。
しかし今日は、コーヒーミルの音ばかりが店内に響いていた。
たきなは豆を量り、グラインダーへ入れる。抽出時間を確認し、カップを温める。
一連の動作は正確だった。
ただ、同じカップの位置を三度直した。
「ねえ、たきな」
カウンター席に座った千束が、頬杖をついたまま呼びかける。
たきなは返事をせず、カップをソーサーへ置いた。
カチリ、と乾いた音がした。
「さっきの話、まだ怒ってる?」
「怒っていません」
「怒ってる人のカップの置き方だったけど」
「通常どおりです」
「そっかあ。じゃあ通常より二割くらい怖いだけか」
たきなは千束を見た。
千束は笑っていたが、その笑顔はいつもより慎重だった。
「私は、次の任務で同じ問題を起こさないよう反省しているだけです」
「問題なんて起こしてないよ。任務は成功したでしょ」
「結果が出たからといって、過程に改善点がなかったことにはなりません」
「それはそうかもしれないけど……」
「なら、話は終わりです」
たきなは踵を返し、棚に並んだ備品の確認を始めた。
紙ナプキン、ストロー、砂糖、ミルク。
一度数えたものを、もう一度数える。
「たきなは十分やってるよ」
背後から聞こえた千束の声に、指が止まった。
「射撃もすごいし、判断も早いし、店の仕事も私よりずっと丁寧だし」
「千束と比較する意味はありません」
「え、そこはちょっと褒めてくれてもよくない?」
冗談めかした声。
たきなは振り返らなかった。
「でもさ。何でも一人で完璧にやろうとしなくていいんじゃない?」
「なぜですか」
言葉が、思ったより強く出た。
たきなはゆっくりと千束へ向き直る。
「私は一度、自分の判断で居場所を失いました」
千束の表情から、わずかに笑みが消えた。
「結果が正しくても、組織に必要とされなければ意味がない。なら、二度と間違いだと言われない結果を出すしかありません」
「ここはDAじゃないよ」
「分かっています」
「ミカも、みずきも、クルミも、たきながちょっと失敗したくらいで追い出したりしないよ」
「それをどうやって保証するんですか」
千束が息を止めた。
たきなの手は、エプロンの裾を固く握っていた。
「私が足を引っ張れば、あなたたちに迷惑がかかります。任務で判断を誤れば、今度は誰かが傷つくかもしれない。そうならないために精度を上げることの、何が悪いんですか」
「悪いなんて言ってない」
千束は椅子から立ち上がった。
「たきなが頑張るところ、私はすごいと思ってるよ。でも、自分を使い潰すみたいにやるのは違うでしょ」
「使い潰すつもりはありません」
「今日だって、当たりそうになってた」
「当たっていません」
「結果の話じゃない!」
千束の声が、店内に強く響いた。
たきなの肩がわずかに揺れる。
「任務が成功しても、たきなが戻ってこなかったら意味ないじゃん」
「意味はあります。対象を排除し、被害を防げたなら――」
「そんなの、たきながただの道具みたいじゃん」
たきなの表情が固まった。
千束も、自分の言葉の強さに気づいたらしい。けれど、撤回はしなかった。
「私は、たきなと明日もここに立ちたいんだよ。コーヒー淹れてもらって、細かいことで怒られて、ご飯一緒に食べてさ。そういうの、任務の成績とは関係ないでしょ」
その言葉は温かかった。
温かすぎて、たきなには受け止め方が分からなかった。
もし本当に、成果とは関係なくここにいてよいのなら。
DAを追われた後、自分が必死に積み上げ直してきたものは何だったのか。
気を抜けば、また何かを失うのではないか。
「……甘えです」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「そんな言葉にすがって、現状に満足してどうするんですか」
「たきな……」
「私は、あなたのように適当に生きていける人間ではありません」
千束の瞳から、いつもの明るさが消えた。
たきなはすぐに言い過ぎたと気づいた。
けれど、謝罪の言葉は喉の奥で止まった。
千束はしばらく黙った後、テーブルに置いていた鞄を手に取った。
「……そっか」
それだけを残し、店の奥へ消えていく。
たきなは追いかけなかった。
追いかける資格があるのか分からなかった。
再び備品棚へ向き直り、途中だった確認を再開する。
紙ナプキン、ストロー、砂糖、ミルク。
数字は合っている。
それでも、たきなは最初から数え直した。#top

3.任務中の罠が暴いたたきなの孤独
衝突から数日後。
二人は必要な会話だけを交わし、任務では互いの動きを正確に補い合った。
表面上は何も変わっていない。
けれど、千束が軽口を言う回数は減り、たきながそれを注意することもなくなった。
その日の任務は、都市部の地下設備へ潜伏した武装集団の制圧だった。
たきなは送られてきた見取り図と監視映像を照合し、侵入経路、敵の配置、退路、射線が交差する地点を洗い出した。
作戦書は一度完成した。
それでも、たきなは端末を閉じなかった。
敵の移動時間を修正し、進入角度を変更し、同じ経路の危険度を何度も再計算する。
「たきな」
向かいに座っていた千束が呼んだ。
「それ、もう四回目じゃない?」
「念のためです」
「念がすごい。もう分身しそう」
「静かにしてください」
千束は何かを言いかけたが、結局、小さく息を吐いただけだった。
突入直前、たきなは端末を千束へ見せた。
「敵の配置に変化がなければ、三分以内に制圧できます」
「変化があったら?」
「対応します」
「一人で?」
「必要なら」
千束の眉が動いた。
たきなは視線を逸らさずに言う。
「今回は、問題ありません。計画どおりに遂行します」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
地下設備は薄暗く、湿ったコンクリートの匂いがした。
二人は間隔を保ちながら通路を進む。
最初の二名は、たきなの想定位置にいた。
千束が非殺傷弾で一人の手首を撃ち、銃口を逸らす。たきながもう一人の足元へ撃ち込み、姿勢を崩したところを制圧した。
問題はない。
進行時間も計画どおりだった。
曲がり角を抜け、たきなが次の区画へ足を踏み入れた瞬間だった。
足元で、微かな電子音が鳴った。
「――下がって!」
千束の声とほぼ同時に、床下で爆発が起こった。
強い衝撃が足をすくい、たきなの身体が壁へ叩きつけられる。視界が白く弾け、耳鳴りが周囲の音を塗り潰した。
見取り図には存在しなかった保守用の空間から、三人の男が飛び出してくる。
伏兵。
予備の起爆装置。
計画にはなかった。
たきなは片膝をつきながら銃を上げようとした。
だが、指が動かなかった。
また判断を誤った。
完璧だと言い切った計画に、穴があった。
かつて閉ざされたDAの扉が、一瞬だけ脳裏によみがえる。
今度はどこへ行けばいい。
千束の隣まで失ったら。
銃口がこちらへ向く。
敵の指が引き金へかかるのが見えた。
それでも身体が命令を聞かなかった。
「たきな、こっち見て!」
千束の声が耳鳴りを切り裂いた。
一発目の非殺傷弾が、右側の男の手首を捉える。銃口が天井へ跳ね、弾丸が配管を削った。
二発目は中央の男の肩へ当たり、身体が横へ流れる。
残った一人の銃口が千束を追う。
千束は引き金にかかった指ではなく、男の肩と腰の向きを見ていた。発砲より先に射線を外れ、コンクリートの柱を蹴って進路を変える。
敵同士の射線が一瞬だけ離れた。
その隙へ、千束が飛び込んだ。
「立って、たきな!」
たきなの装備ベルトをつかみ、強引に引き上げる。
直後、たきながいた場所を弾丸が穿った。
「動けます」
声にしようとしたが、息が漏れただけだった。
「話はあと!」
千束はたきなの腕を肩へ回し、壁際の資材置き場まで引きずるように移動した。
遮蔽物へ滑り込んだ瞬間、千束が無線を開く。
「伏兵三名、仕掛けあり! 入口側に追い込むから、増援お願い!」
『了解。第二班が二十秒で到着する』
千束は返事を聞き終える前に身を乗り出し、牽制射撃で敵を後退させた。
「たきな、ここで待ってて」
「私も――」
今度は声になった。
千束が振り返る。
いつもの笑顔を作ろうとしたようだったが、口元がうまく上がっていない。
「一緒に帰るんでしょ。だから今は、言うこと聞いて」
千束は再び前を向いた。
たきなは震える指で銃を握り直す。
完全には戻っていない。けれど、千束が作った射線の隙を確認し、資材の陰から敵の足元へ一発撃ち込んだ。
男が体勢を崩す。
そこへ第二班が突入し、残った二名を左右から取り押さえた。
『対象全員を確保。周辺の起爆装置も停止した』
無線の報告が届いた途端、たきなの肩から力が抜けた。
千束がすぐに駆け戻ってくる。
「たきな、怪我は? 頭打った? 私が何本指立ててるか分かる?」
顔の前へ出された指は、わずかに震えていた。
「……二本です」
「よかった。名前は?」
「井ノ上たきなです」
「私の名前は?」
「錦木千束」
「今日の夕飯は?」
「知りません」
「うん、いつものたきなだ」
千束は笑った。
だが、その呼吸は乱れたままだった。
たきなは何か言おうとして、千束の袖へ手を伸ばした。
指先が布地に触れる。
その瞬間、頬を一筋だけ、温かいものが伝った。#top
4.千束が見つけた「たきなの孤独の正体」
任務終了後、たきなは喫茶リコリコの奥にあるソファへ座らされていた。
幸い、大きな怪我はなかった。爆発の衝撃で肩と背中を打ち、額をわずかに擦った程度だった。
ミカが傷の処置を終え、店を出ていく。
「今日は二人とも休め。片づけはこちらでやる」
扉が閉まると、店内は静かになった。
千束はたきなの向かいではなく、隣へ腰を下ろした。
救急箱を閉じようとして、一度留め具を外す。もう一度閉じる。今度は反対側が浮いてしまい、眉を寄せながら押し直した。
「貸してください」
たきなが手を伸ばす。
千束は救急箱を抱え込んだ。
「今日はたきな、働いちゃ駄目」
「これくらいはできます」
「できるのは知ってる。でも駄目」
いつもならもっと軽く言うはずの言葉が、妙に硬かった。
たきなは手を引いた。
「……すみませんでした」
千束の指が止まる。
「何が?」
「計画に不備がありました。結果として、増援の手を煩わせました。千束にも危険な行動を――」
「そこじゃない」
千束は救急箱をテーブルへ置いた。
「謝ってほしいんじゃないよ」
「ですが、私の判断が――」
「たきなが帰ってこないかと思った」
静かな声だった。
たきなは言葉を失った。
千束は膝の上で手を組んでいた。指先がまだ微かに震えている。
「敵の銃がたきなに向いたとき、間に合わないかと思った。いつもみたいに避けられるって考える余裕もなかった」
「千束なら、あの程度の射線は――」
「私の話じゃない」
千束がたきなを見る。
その瞳には怒りよりも、隠しきれない恐怖が残っていた。
「たきなが撃たれるかもしれなかったの。私は、それが怖かった」
「……任務には危険が伴います」
「うん。知ってる」
「私たちはリコリスです。必要であれば、危険な状況にも――」
「完璧とか、任務とか、今はどうでもいいよ」
千束の声がわずかに掠れた。
「作戦が失敗したって、また考えればいい。店でミスしたって、みんなで直せばいい。でも、たきなが帰ってこなかったら、明日は一緒に店に立てないでしょ」
たきなは膝の上へ視線を落とした。
「私は、役に立てなければ――」
「役に立つとかじゃなくて、たきながいないと私が困るの」
千束は言い切った後、少しだけ困ったように笑った。
「コーヒーは誰が淹れるのって話だし。私が棚を適当に片づけたら、誰が怒ってくれるのって話だし。映画見てても、たきなが隣で難しい顔してくれないと張り合いないし」
「それは……他の人でもできます」
「できないよ」
返事は迷いなく返ってきた。
「たきなじゃなきゃ駄目なの」
恋愛の告白のような甘い声音ではなかった。
もっと切実で、もっと身勝手な言葉だった。
千束が自分の日常にたきなを必要としている。
その事実を、たきなはどう処理すればよいのか分からなかった。
「……甘えです」
反論しようとした声は弱かった。
「そうかもね」
千束はあっさり認めた。
「私はたきなとご飯食べたいし、明日も一緒に働きたいし、くだらない話もしたい。だから、勝手にいなくなられたら困る。かなり甘えてるかも」
「そういう意味では……」
たきなは顔を上げた。
千束の目元が、わずかに赤いことに気づく。
戦場で震えていた手も、まだ完全には止まっていない。
その震えを見た途端、用意していた言葉が消えた。
自分の成果とは関係なく、千束は飛び込んできた。
計画の失敗を責めるより先に、怪我を確かめた。
今も、たきながここにいることだけを見ている。
「私は、また失敗しました」
たきなは絞り出すように言った。
「完璧だと言った計画に穴があった。動けなくなって、千束に助けられて……何もできませんでした」
「一発撃ってくれたでしょ。あれで助かったよ」
「それだけです」
「それだけで十分だった」
「十分ではありません」
「じゃあ、十分じゃないままでいいよ、今日は」
千束がそっと手を伸ばす。
たきなは反射的に身体を引こうとした。
けれど、千束の指が頬へ触れる直前で止まったのを見て、自分から逃げることもできなかった。
「触ってもいい?」
たきなは答えなかった。
代わりに、千束の袖をつかんだ。
ほんの少しだけ。
千束は何も言わず、たきなの隣へ身体を寄せた。
頭に触れる手は、戦場で腕を引いたときとは違い、ひどく慎重だった。
「……本当に、馬鹿です」
「誰が?」
「千束です」
「ひどいなあ。命の恩人なのに」
冗談めかした声。
けれど、千束の胸へ額が触れたとき、その奥で速く脈打つ心臓の音が聞こえた。
千束も怖かったのだ。
その単純な事実が、たきなの中に残っていた答えを少しだけ揺らした。
成果を出さなければ、必要とされない。
失敗すれば、居場所を失う。
それ以外の可能性を、たきなはまだ信じられない。
それでも、千束の服を握った指を離すことはできなかった。
「……離してください」
「たきなが先に離したらね」
「子供ですか」
「たきなにだけは言われたくないなあ」
たきなは反論しようとした。
声の代わりに、堪えていた息が小さく震えた。
千束は何も聞かなかった。
ただ、たきなが自分から離れるまで、静かに背中を撫で続けていた。#top

5.千束とたきなが見つけた、たった1つの不完全な幸せ
数日後。
喫茶リコリコには、いつもの穏やかな時間が戻っていた。
たきなは閉店後の店内を見回し、清掃の終わったテーブルを確認する。
椅子の位置にずれはない。床にも汚れは残っていない。コーヒー豆の在庫も、先ほど確認した。
それでも、備品棚へ視線が向いた。
紙ナプキンの残数をもう一度数え、明日の補充予定を確認するべきだ。
時計を見る。
予定では、これから十五分で在庫確認を終え、その後に明日の作業手順を整理することになっていた。
「たーきーなー!」
カウンターの向こうから、千束が大きく手を振る。
テーブルには、紅茶と二つのケーキが並んでいた。
「休憩しよ! 今日のケーキ、ミカがくれたやつ!」
「先に明日の備品確認を――」
言いかけて、たきなは止まった。
千束が期待に満ちた顔で、隣の椅子を軽く叩いている。
備品棚を見る。
時計を見る。
もう一度、千束を見る。
今でも、仕事を残したまま休むことには落ち着かなさを覚える。
効率的ではない。
計画どおりでもない。
けれど、十五分遅れたところで、誰かが困るわけではなかった。
「……分かりました」
「おっ」
「ただし、一つだけです」
「ケーキを?」
「休憩をです」
「じゃあケーキは二個食べてもいい?」
「駄目です」
たきなは千束の隣へ座った。
温かな紅茶の香りが立ち上る。
千束は今日見かけた猫の話を始めた。白と黒の模様が、ミカのスーツに似ていたらしい。
何の結論もない話だった。
聞いたところで、任務の成功率が上がるわけでも、店の売上に貢献するわけでもない。
けれど、千束が身振りを交えて話す様子を見ていると、胸の奥に残っていた固いものが、少しだけ緩んでいく。
「それでね、その猫がこっち見て、すっごい渋い顔するの。あれ絶対ミカだったよ」
「猫とミカを同一人物として扱わないでください」
「でもたきなも見たら納得するって!」
「しません」
そう答えながら、たきなは紅茶へ口をつけた。
予定からは、もう三分遅れている。
以前なら気になったはずだった。
今も、まったく気にならないわけではない。
任務で高い精度を求めることは、自分の誇りだ。それを手放すつもりもない。
ただ、それだけで一日を埋め尽くさなくてもよいのかもしれない。
千束の言葉を、すべて信じられたわけではない。
失敗してもここにいてよいと、自分自身へ言い聞かせることもまだできない。
それでも、千束がこれほど大切にしている自分を、自分だけが粗末に扱い続けるのは、少し違う気がした。
何の成果も生み出さない、ただ隣で紅茶を飲むだけの時間。
それを自分から選ぶことくらいなら、今のたきなにもできる。
「たきな?」
千束が顔を覗き込んでくる。
「どうしたの。紅茶を見つめて固まって。もしかして、美味しすぎて感動中?」
「違います」
「じゃあケーキ?」
「違います」
「私の話が面白すぎた?」
「それは絶対に違います」
千束が不満そうに頬を膨らませる。
その顔を見て、たきなの口元がわずかに緩んだ。
「あっ!」
千束が勢いよく立ち上がる。
「今、笑った! たきなが笑った!」
「笑っていません」
「笑ったよ! 絶対笑った! もう一回やって!」
「できません」
「写真撮りたい!」
「やめてください」
逃げる千束からスマートフォンを取り上げようと、たきなも席を立つ。
閉店後の店内に、二人の足音と笑い声が響いた。
備品確認は、まだ終わっていない。
それでも、たきなはすぐには時計を見なかった。#top

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