【リコリコSS】偽装の境界線|千束とたきなの恋人潜入任務【ファンアート】

あらすじ|偽装の恋人、近すぎる距離

秋の夜、ホテルで開かれるレセプションへ潜入する千束とたきな。二人に用意された招待枠は、「恋人同士」としてのものでした。

任務のために始めた恋人特訓。楽しそうに距離を詰める千束に、たきなは思わぬところで動揺してしまいます。

手をつなぐのも、見つめ合うのも、演技のため。そのはずなのに、触れた手の温かさは、なかなか消えてくれなくて——。

からかい合う二人と、少しずつ曖昧になる「演技」と「本心」の境界を描く、秋のリコリコSSです。

※本作は『リコリス・リコイル』を題材とした非公式の二次創作SSです。原作および公式関係者とは関係ありません。

作品公式サイト:リコリス・リコイル


喫茶リコリコで招待状を差し出すミカと、楽しそうな千束、ペンを止めたたきな、頬杖をついて見守るクルミ

1.二人分の招待状

ミカ「今回は、恋人同士として出席してもらう」

たきなのペンが止まった。

開店前のリコリコには、挽きたてのコーヒーの香りが漂っている。隣では千束が、まだ何も説明されていないのに楽しそうな顔をしていた。

千束「ほほう。誰と誰が?」

ミカ「君たち二人だ」

千束「たきなと。なるほどねえ」

たきな「なぜ私を見るんですか。資料を見てください」

ミカが差し出したのは、今夜ホテルで開かれるレセプションの招待状だった。改装された庭園のお披露目を兼ねた、パートナー同伴の夕べ。会場で密売組織の内部資料を受け取り、情報提供者を保護する。

相手には監視がついている。露骨な接触は避けたい。

ミカ「協力者が用意した招待枠がある。主催者には、女性二人の恋人同士として話が通っている」

たきな「分かりました。会場の配置と退路を確認します」

千束「お、即答。千束さんとの恋人役も問題なし、と」

たきな「任務に必要なら構いません」

千束「よろしくお願いしまーす、たきなさん」

差し出された手を、たきなは握った。千束がそのまま上下に振る。

千束「いや、取引先へのご挨拶じゃないんだから」

たきな「そちらが出したんでしょう」

カウンターの向こうでクルミが笑った。

クルミ「先が思いやられるな」

千束「大丈夫。出発までには、ちゃーんと仕上げますから」

たきなは、招待状から顔を上げた。

今の説明に、仕上げられる側の同意は含まれていなかった。

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2.手をつなぐ練習

喫茶リコリコで手をつなぎ、優しく笑う千束と、頬を赤らめて見つめ返すたきな

午後、店の奥には、借りてきた衣装が並んでいた。

たきなが会場の見取り図を確認していると、その上に千束の顔が現れた。

千束「はい。では、恋人特訓を始めます」

たきな「準備は進めていますが」

千束「そっちじゃなくて。二人で並んで、はい恋人です、って言えば済むと思ってるでしょ」

たきな「身元の設定に矛盾がなければ」

千束「その顔で言われると、すごく仕事っぽいんだよなあ」

千束は見取り図を脇へ寄せ、自分の隣を指した。

言われたとおりに立つと、すぐに首を振られる。

千束「遠い」

たきな「会話には支障ありません」

千束「会議の配置を決めてるんじゃないの。ほら、手」

開かれた左手に、右手を重ねる。

握手の形になる前に、千束が手の向きを変えた。隣へ並び、指を曲げて包んでくる。

指の付け根まで触れる掌が温かい。たきなは一瞬、自分がどう握り返していたのか分からなくなった。

肩が近かった。

千束「そうそう。で、相手の顔を見る」

横を向くと、赤い瞳がすぐそこにあった。

唐突な距離に、たきなはドキッとしてとっさに距離を取ってしまった。

千束「お。今、逃げた」

たきな「逃げていません……」

千束「壁に何かありました?」

たきな「……時計です」

千束「さっきから一分も経ってないよ?」

笑いながら、千束がつないだ手を少し持ち上げた。たきなの身体も、つられてそちらへ向く。

千束「ほら、こっち見て。恋人なんだから」

たきな「恋人という設定です」

千束「だから、その練習でしょ」

今度は顔をそらさなかった。

千束の笑みが、少しだけゆっくりになる。

千束「……うん。かわいい」

トクン、と胸の奥が鳴った。

その一拍が、妙にはっきり響いた。首筋からじわりと熱が上がり、頬へ、耳の先へと広がっていく。

たきな「それは……」

声が喉でつかえた。

冗談を言うときの、大きな声ではなかった。二人の間だけに落とされたような声が、まだ耳に残っている。

返事をしなくては。そう思っている間にも、鼓動が速くなっていく。

千束はまだこちらを見ていた。

今、顔に出ていないだろうか。

視線を落とすと、つないだ手があった。上へ戻せば、千束の顔がある。

たきなは、自分の足元を見た。

千束「……近い?」

ち、近いです。

もう少し離れてください。

そう言おうとしたところで、千束の指が緩んだ。

たきなの指が先に曲がった。

離れかけた手を、つかみ直していた。

千束の視線が、二人の手へ落ちる。

たきな「こ、これは、その」

千束「うん」

いつもなら、ここで何か言って笑うはずだった。

千束は黙って、続きを待っている。

たきなは顔を上げられなかった。ゆっくり息を吐いても、胸の内側を打つ音が静まらない。こんなに近くにいたら、千束にも聞こえるのではないか。

握り返した掌まで熱い。少しだけ指の力を緩めて、それでも離さずにいた。

千束「……このままでいい?」

たきな「……はい」

答えてから、顔を上げた。

千束が笑った。

つかみ直した手をほどかずに、もう一度、たきなの隣へ並ぶ。

千束「じゃ、歩いてみよっか」

たきな「はい」

声が小さかった。

千束は聞き返さず、たきなが足を出すのを待ってから歩いた。

部屋の端までは、数歩しかない。

いつもなら気にしない床の継ぎ目を踏み越え、折り返す。千束が向きを変えるとき、指に少し力が入った。そのたびに、たきなは歩幅を忘れそうになった。

千束「はい、よくできました」

ようやく手が離れた。

たきなは、右手を身体の脇へ下ろした。指がまだ少し曲がっていたので、そっと伸ばす。

掌に残った温かさは、指を開いても消えなかった。

千束「お茶にしよ。先生、喉渇いちゃった」

たきな「……千束」

千束「ん?」

さっきの「かわいい」まで、練習だったのだろうか。

千束が首をかしげた。

たきなはカップへ目を移した。

たきな「紅茶、冷めますよ」

千束「おっと。それはいけませんな」

千束が笑いながらカップを取る。

たきなは自分の分へ手を伸ばし、一度、持ち手をつかみ損ねた。

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3.鏡の前で

鏡の前で赤いドレスの裾を軽く広げ、笑顔で衣装を披露する千束

次は、落ち着いて対応する。

たきなはカップをソーサーへ戻した。ようやく頬の熱が引いてきたところだった。

手をつなぐ。それから相手を見る。手順は分かっている。いちいち驚かなければいい。

千束「たきな、ちょっといい?」

千束が手を伸ばした。

まだ触れられてもいないのに、胸が早くも一つ跳ねた。

たきなは背筋を正し、右手をカップから離した。

千束の手は肩の横を通り過ぎ、後ろのハンガーを取った。

千束「……どうしたの?」

たきな「何がですか」

千束「なんか、はい来い、みたいな顔してたけど」

たきな「していません」

千束は紺色のワンピースと、たきなの右手を交互に見た。

千束「もしかして、もう一回?」

たきな「衣装を確認します」

受け取る動きが少し早くなった。衣装を広げて顔を伏せても、耳の熱さばかりが気になった。

着替えて鏡の前へ出ると、千束も深い赤のドレスに着替えていた。裾を軽くつまみ、一周してみせる。

千束「どうですか、お客様」

たきな「……動くのに問題はなさそうですね」

千束「そっちかー」

千束が笑った。

たきなは鏡の中へ目を戻す。自分の服を見るつもりだったのに、赤い裾が止まるまで、視線がそちらについていった。

千束「たきなも、こっち向いて」

振り返る。

また何か言われる、と口元に力を入れた。

千束はたきなを上から下まで眺め、それから、ごく普通の声で言った。

千束「それ、ほんとに似合ってるよ」

すぐに返事をしたかった。けれど、頬がゆっくり温かくなっていくのを感じると、口元まで緩みそうになった。

たきなは唇を軽く引き結んでから、ようやく答えた。

たきな「……ありがとうございます」

千束「うん」

千束は上着を取りに戻った。

たきなは鏡に向き直り、一度整えた襟を、もう一度整えた。

千束「じゃ、設定の確認ね。付き合い始めたのは?」

たきな「三か月前です」

千束「知り合った場所」

たきな「共通の知人の紹介で」

千束「ばっちり。もう大丈夫だね」

ファスナーの閉まる音がした。

鏡越しに、千束がバッグを持つのが見えた。さっきたきなの手を包んでいた指が、細い持ち手にかかっている。

たきな「……まだ」

千束「ん?」

たきな「この靴で歩いていません」

自分の足元を指す。低いかかとを一度、床へ当てた。

たきな「会場で不自然になっても困りますから」

千束「お。熱心な生徒だなあ」

そう言いながら、千束はバッグを置いた。

左手が差し出される。

また、鼓動が速くなった。

自分で頼んだことなのに。

たきなはその手を見てから、千束を見た。

千束は何も言わずに待っていた。

たきなは一歩近づき、右手を重ねた。

指が包まれる。掌の温かさに息をついた。鼓動はまだ速いのに、肩からは少し力が抜けた。

今度は、自分から指を曲げた。

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4.グラス越しの視線

作戦当日、ホテルの大きな窓に、暮れかけた庭園が映っていた。

磨かれた床を照明が淡く照らし、ピアノの音に、グラスの触れ合う音が混じっている。

招待状を確認した係員へ、千束はすぐに笑いかけた。季節の飾りつけを褒め、庭園の話を聞く。その間に、たきなは出入口と人の流れを確かめた。

クルミ『灰色のスーツ、窓際。情報提供者は確認できた。……たきな、半歩離れすぎ』

直後、千束の指がたきなの手に触れた。

千束「行こ」

顔は係員へ向けたまま、手だけが隣へ招いている。

たきなは握り返した。

今度は、立ち止まらずに歩けた。千束がこちらを向いても、目をそらさなかった。

ただ、隣へ来たのを確かめるように親指が動くと、そのあとの係員の説明が一つ、耳に入らなかった。

飲み物を受け取るとき、いったん手を離した。

二人ともジュースを選び、窓際のテーブルへ寄る。千束が食べ終えた小皿を持ったまま隣の客と話し始めたので、たきなはそれを受け取った。

千束が目だけで礼を言う。

人の流れが二人の間へ入りかけると、千束が立ち位置を変えた。たきなが隣へ来られるだけの場所が空いた。

女性客「お二人とも息が合っているのね。お付き合いは長いの?」

年配の女性が、隣の男性と微笑み合った。

千束「付き合ってからはまだ三か月くらいなんです」

たきな「そうですね」

女性客「まあ、初々しいわね。お相手の、どんなところが好き?」

千束がこちらを見る。

交際期間も、知り合った経緯も決めていた。

その質問の答えは、決めていなかった。

千束の手がテーブルの縁に置かれている。昼間、たきなが握り返すまで開かれていた手だった。

たきな「……わ、私のことを、ちゃんと見てくれるところです」

口にしてから、千束を見た。

笑っていた口元が、きょとんとしたようにわずかに止まっている。

たきな「返事が遅くても、待っていてくれるので」

つい長く言い足してしまった。

女性が優しく目を細め、隣の男性の腕に手を添える。

千束「……たきなは、ちゃんと考えてから言うもんね」

いつもより少しゆっくりした声だった。

女性が、自分たちの若いころの話を始めた。千束はそちらへ相槌を返す。

たきなはジュースを飲んだ。

グラスを置くと、千束がこちらを見ていた。

目が合い、千束が小さく口を開く。

不意に、緊急連絡がそこに入ってきた。

クルミ『対象が動くぞ』

連絡が入るや否や、たきなは、すぐに窓際へ顔を向けた。

灰色のスーツの男が、庭へ通じる扉の方を見ていた。少し離れた給仕へ目をやり、また正面へ戻す。

給仕のトレーは、先ほどから空のままだった。

たきなは千束を見る。

千束も、そちらを見ていた。

千束「ちょっと外、見てこよっか」

たきな「はい」

先ほどの女性客にあいさつをしたのち、二人はグラスを置き、上着を羽織った。

千束の視線が、お菓子の並ぶテーブルへ一瞬寄った。栗のタルトが一つ残っている。

たきなは千束の視線を追い、残っているタルトを確かめてから、ガラス扉へ向かった。

背後でピアノが別の曲を弾き始めた。

男が少し遅れて、二人のそばへ来た。

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5.ガラス扉の向こう

夜のホテルの庭園で、銃を下向きに構える千束と、背中を合わせて周囲を警戒するたきな

情報提供者「お願いします。これを——」

差し出された薄い封筒へ、たきなが手を伸ばした。

給仕「お客様」

トレーを持っていない方の手が、上着の内側へ入る。

千束「たきな」

声の調子が変わった。

たきなは封筒を受け取り、情報提供者の男を柱の陰へ引いた。その前を、赤い裾が横切る。

千束が身をずらした直後、鋭い音が庭園に響いた。

弾は二人のいない場所を抜け、奥の飾り板を砕いた。

千束「皆さん、低くなって! 建物の方へ!」

逃げる客の進路を空けたまま、千束が給仕の男へ踏み込む。次の銃口が追いつくより早く、乾いた発砲音が続いた。

非殺傷弾を受けた給仕の男が、石畳へ崩れる。

たきなは封筒をバッグへ収め、情報提供者の肩を押さえた。

たきな「ここにいてください」

ガラス扉のそばで、もう一人が動いた。逃げ遅れた客をつかもうとする腕。その先を見たときには、千束がこちらを見ていた。

ほんの一瞬、目が合う。

たきなはもう一人の男へ向かった。

入れ替わるように千束が客の方へ回る。すれ違う際、背中が軽く触れた。

たきなは伸びた腕を制し、体勢を崩した男を地面へ押さえた。落ちた銃が石畳を滑る。その先では千束が、座り込んだ女性に手を差し出していた。

千束「立てる? ゆっくりでいいからね」

クルミ『外の保護班が来る。庭の西側へ抜けられるぞ』

たきな「了解です」

男を拘束し、たきなは息を整えた。

手を開いて、閉じる。指はいつもどおりに動いた。

千束「たきな、そっちは?」

たきな「確保しました。資料も無事です」

千束「けがは?」

たきなは首を振った。

千束「よし」

笑った顔の横で、赤いリボンが傾いていた。

たきな「千束——」

係員が駆け寄ってきた。たきなが情報提供者のことを伝えている間に、千束は先ほどの女性のそばへ膝をついていた。

千束「手、見せてもらってもいいですか?」

女性の掌に擦り傷がある。

千束はハンカチを取り出し、手渡した。立ち上がる際には、倒れた椅子も起こしている。

たきなは保護班へ資料を渡し、それぞれの引き継ぎを確かめた。

庭の隅で、千束が係員に何か尋ねていた。相手が頷くと、ほっとしたように笑う。

風が吹き、千束の髪を揺らした。

傾いたリボンは、そのままだった。

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6.庭灯の下で

情報提供者と資料の引き継ぎを終えたころには、空はすっかり暗くなっていた。

大きなけが人はいない。追っ手の二人も確保された。

庭の外へ出ると、夜風が上着の袖を揺らした。

クルミ『お疲れ。ミズキが迎えに行く。正面は混んでるから、西門の先で待っててくれ』

千束「はーい。いやあ、最後はちょっと忙しかったね」

クルミ『恋人役も忙しそうだったけどな』

千束「たきな、なかなかよかったでしょ」

クルミ『途中から、ずいぶん自然だったな。まるで本物の恋人のようだったぞ。ホントに付き合っちゃってるんじゃないのか?』

千束「なーにいってるの。そりゃあ、先生の教え方がいいですから」

クルミ『あはは、そういうことにしとくよ。二人とも、忘れ物しないで帰ってこいよ~』

通信が切れた。

千束はイヤホンを外し、バッグへしまう。たきなも同じようにして、上着の襟を直した。

千束「練習したかいがあったねえ」

たきな「実演の回数は、少し多かったと思います」

千束「でも、上達したでしょ?」

たきなは、千束の髪へ目をやった。

千束が気づかずに、西門の方を指す。

千束「じゃ、行こっか」

たきな「……少し、待ってください」

足を止めた千束が振り返る。

たきなは庭灯を見上げ、自分のバッグをすぐ脇のベンチへ置いた。

たきな「一つ、見てほしいことがあります」

千束「ん? なになに。先生に何でも聞いてごらん」

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7.リボンの結び目

千束は、上着のポケットへ入れかけていた手を取られた。

たきなの右手だった。

たきな「こっちへ」

千束「はいはい」

半歩、明かりの下へ動く。

たきなは千束のバッグも受け取ってベンチへ置くと、身体ごとこちらを向いた。

千束「お、手のつなぎ方? もうできてるじゃん」

たきな「では、次です」

千束「次?」

たきなが近づいた。

横に並んでいたときとは違う。つないだ手が、向かい合った二人の間へ下がる。

千束は顔を上げた。

たきな「こっちを見てください」

千束「……見てるけど?」

たきな「はい」

たきなの指が、少し動いた。

握りやすい位置を探しただけの、小さな動きだった。

指の側面を、たきなの指が滑る。そこだけ妙に温かく感じて、千束はつい手元を見た。少し指を動かすと、たきなの手も合わせるように動く。

顔を戻すのが遅れた。

たきな「目を逸らさないんですよね。恋人なら」

千束「……あ。うん」

たきな「では、もう少し」

言った覚えは、ある。

千束は笑って頷いた。けれど、たきなはその笑いに乗ってこなかった。

黒い髪が庭灯を受けて、細く光っている。

千束の視線が揺れても、たきなは次のことを言わず、戻ってくるのを待っていた。

遠くで車が通った。

千束「……たきなさん、先生に厳しくない?」

たきな「教わったとおりにしています」

千束「まあ、そうなんですけどねえ」

いつもの調子で肩をすくめたつもりだった。

その肩が、たきなの上着に触れそうになった。

たきなは下がらなかった。

千束も、そのまま立っていた。

たきな「今日の千束、とても綺麗です」

千束「……へ?」

たきな「今日もとても美しいです」

千束は、自分のドレスへ目を落とした。

千束「あ、衣装? これ、いいよね。色もさ——」

たきな「服も、ですけど……」

言い終えたたきなが、一度だけ口を結んだ。

千束の喉の奥で、息が小さく引っかかった。

服も……?

その一言が頭の中でもう一度聞こえた途端、頬がかっと熱くなった。耳まで熱が上がってくる。さっきまで平気だった上着の襟元が、急に暑苦しい。

千束は、途中だった言葉を続けられなくなった。

夜風が頬を撫でていく。少しは冷めるかと思ったのに、たきなはまだ、まっすぐこちらを見ていた。

千束は上着の裾をつまんだ。片手で顔をあおごうとしていたのを、途中で変えたせいだった。

たきな「……千束?」

千束「いや、ちゃんと聞いてる。聞こえてるよ」

同じことを二度言った。

たきなの視線が、千束の髪へ移った。

たきな「少し、動かないでくださいね」

空いている方の手が上がる。

千束はその動きを目で追った。たきながもう少し近づくので、顎を引く。

あれ。ちょっと待って。
これ、何をするつもり……?

妙な期待感から顎を引きすぎたのか、たきなが小さく首をかしげた。

たきな「リボン、直しますね」

千束「……あ。リボンね……」

そういえば、たきなに呼ばれた気がする。あのときは係員が来て、そのあと、女性の手を確かめていた。

千束「曲がってた?」

たきな「さっきから」

たきなの指が、結び目に触れた。

千束はまばたきをした。

近い。

昼間、たきなに何度も言われた言葉が、今さら口まで上がってきた。

言えば少し離れるだろう。たきななら、すぐに。

千束は口を閉じた。

たきなが片方の輪を整える。指が離れたかと思うと、今度は浮いた髪をそっと押さえた。

その指先が耳の縁をかすめて、千束は唇をきゅっと結んだ。

熱くなっているのが、今のでばれただろうか。

つないだ方の手は、その間もずっと下にあった。

千束「……もう、平気?」

たきな「あと少しです」

千束「うん」

返事をすると、たきなの手が一瞬止まった。

千束もじっとしていた。

庭灯の明かりが、たきなの頬の片側を照らしている。そこにかかる髪を、さっきたきなにされたみたいに避けてみたくなった。

千束の右手が、上着から少し離れた。

たきな「できました」

行き先をなくした手で、千束は自分の髪に触れた。

千束「……ありがと、たきな」

たきな「はい」

たきなの口元が、少し緩んだ。

その笑い方を見たら、今度は胸の奥まで温かくなった。千束は自分の手を下ろし忘れた。

たきなはリボンから指を離し、近づいていた肩を少し引いた。

たきな「もう、離しますか」

千束「……いや」

たきなが止まった。

千束は笑おうとした。

千束「ほら、まだ——」

続きが出てこなかった。

たきなは、つないだ手を見ていた。

千束の方から、握り直していた。

二人の足元で影が重なっている。千束は一歩動きかけ、そのままにした。

たきな「……千束」

さっきより、小さな声だった。

千束「な、なに」

たきなの視線が、初めて伏せられた。

髪の隙間に見える耳が赤い。つないだ掌も、さっきより熱く感じた。

たきなも……?

千束は口を開きかけた。

自分の手も、熱い。

この熱さまで、たきなに伝わっているのだろうか。

何も言えないまま、握っている指をほんの少し寄せた。

たきなの指が少し動く。

離れるのかと思った。

けれど、手はそこに残った。千束の指の間で、握り方がわずかに変わっただけだった。

千束は、顔を上げたたきなと目が合った。

今度は、そらす先を探せなかった。

千束「……今の、練習なんだよね?」

たきなの唇がわずかに開いて、閉じた。

返事を待つあいだ、千束は握る力を緩められなかった。

たきな「……お返しの、つもりでした」

千束「……つもり」

たきなは頷かなかった。

つないだ手を見て、それから、千束を見た。

千束はいつものように、やられました、と笑おうとした。息を吸ったのに、声にならない。

たきなが、小さく息を吐いた。

それを聞いて、千束もようやく呼吸を戻した。

風がもう一度吹き、たきなの髪が頬へかかった。千束の右手が動きかける。

たきなも何か言おうとしていた。

二人とも、途中で止まった。

千束「……たきな」

たきな「はい」

返事だけは、すぐに来た。

その先を待っている目があった。

千束は一度、口を開いた。

たきなが先に、つないだ手をゆっくりほどいた。

指の間に夜風が入り込んだ。さっきまで触れ合っていたところが、急に冷えていく。

千束は離れた手を追いかけそうになって、自分の指を小さく曲げた。

たきな「……採点は、後でお願いします」

千束「え?」

たきな「迎えが来ますから」

言い終わる前に、たきなはベンチへ向き直った。

バッグを取り、千束のものを差し出す。そのときにはもう、いつものきちんとした持ち方に戻っていた。

ただ、顔はこちらを向かなかった。

千束「ちょっと。たきな」

たきな「西門ですよね」

千束「うん。そう、だけど」

たきなが歩き始める。

数歩先で、歩く速さが少し落ちた。

千束はバッグを受け取った右手を持ち直し、空いた左手でリボンに触れた。

形は、綺麗に整っていた。

指で一度確かめてから、千束も歩き出した。

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8.帰り道の手

西門を出たところで、千束はたきなに追いついた。

千束「早いって、たきな」

たきな「……すみません」

たきながこちらを見かけて、前へ向き直る。

千束も、同じ方を見た。

靴音が二人分、少しずれながら続いた。

道の脇に落ち葉が集まっていた。車が通ると、数枚だけがくるりと回って元の場所へ戻る。

千束「帰ったら、なんか食べよっか」

たきな「そうですね。お腹が空きました」

千束「会場のお菓子、もうちょっと食べたかったなあ」

たきな「栗のタルトですか」

千束「……なんで分かったの」

たきな「出る前に、見ていたので」

千束「そんなとこまで見てた?」

たきな「目の前でしたから」

たきながこちらを向いた。

千束も向き、今度は、少し笑えた。

千束「店にケーキ、まだあったっけ」

たきな「二つ残っていたと思います」

千束は話しながら、何気なく左手を差し出した。

たきなの右手が、ごく自然に重なる。

千束「お、じゃあそれで。コーヒーも——」

数歩進んでから、千束は二人の間に目を落とした。

千束「……あれ」

たきな「どうしました?」

つないだ手が、小さく揺れた。

たきなは歩く速さを緩めていた。それでも、指はほどけなかった。

千束「……んーん。なんでもない」

千束は隣に並び直した。

たきな「コーヒーも、淹れましょうか」

千束「うん。お願い」

たきな「分かりました」

たきなが前を向いた。

千束は、重なっていた指の位置を少し直した。握りやすいところへ、たきなの手も動く。

千束「ケーキ、一個ずつね」

たきな「はい」

同じ速さになった靴音が、歩道に続いた。

千束は迎えの車を探すふりで、少しだけ顔を上げた。

冷たい風に肩をすくめ、千束は半歩、たきなの方へ寄った。

つないだ指が、少しだけ握り返された。

秋の夜の並木道で手をつなぎ、互いに微笑みかけながら歩く千束とたきな

二人が互いを気遣う物語を、もう少し楽しみたい方はこちらもどうぞ。

【リコリス・リコイル SS】たきなの孤独の正体――千束が示した「不完全でもいられる居場所」
完璧であろうとするたきなと、千束が示す居場所を描いた物語です。

【リコリス・リコイル SS】たきなの「答え」、千束の「正解」|一人でできても、二人でいい
自分を後回しにしてしまう千束へ、たきなが自分なりの答えを返す物語です。

BlueRabbit_Artでは、千束やたきなをはじめ、キャラクターたちのさまざまな表情を描いています。よろしければ、ギャラリーページもご覧ください。

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