【リコリス・リコイルSS】余白の予約票|千束とたきな、あの日の「今度」

あらすじ|報告書の裏に残された約束

秋の喫茶リコリコで、古い報告書の控えを処分していた井ノ上たきな。シュレッダーへ送る寸前の一枚を裏返すと、そこには錦木千束の赤い文字と、自分が書いた「検討します」が残っていました。

任務の記録には残らなかった、二人だけの小さな約束。千束が今も隣にいるからこそ、胸に触れる寂しさを描いた、秋の午後の物語です。

※本作は『リコリス・リコイル』の非公式二次創作です。

作品公式サイト:リコリス・リコイル


秋の喫茶リコリコで朱色の書き込みがある紙を見つめるたきなと、コーヒーを持って近づく千束

余白の予約票

1.特記事項なし

任務完了。人的被害なし。特記事項なし。

たきなは記載を確かめ、紙をシュレッダーへ差し入れた。

白い面が、ゆっくりと沈んでいく。
同行者の欄にあった千束の名前が、端から刃に呑まれた。

その下には、自分の名前がある。

二人の名前が並んでいるところを、もう少し見ていたかった。
そう思ったときには、紙は指を離れていた。

短い音がして、最後の端が消えた。

たきなは、空になった指先を見た。
それから次の一枚を取った。取れてしまったことが、少し嫌だった。

秋の午後、喫茶リコリコには客がいなかった。
窓際の椅子に陽が当たり、奥の作業机までは届いていない。
そこには、古い報告書の控えが積まれていた。

必要な記録は、別に保管されている。
照合を終えた控えは処分する。それでいい。誰にも困ることはない。

それでも、さっきの一枚を、もう一度見たいと思った。

何が書かれていたのか。
日付も、任務の内容も、確認したばかりなのに曖昧だった。ただ、千束と自分の名前が並んでいたことだけが残っている。

透明な屑入れの中で、白い紙片が重なっていた。
どれが千束の名前だったのか、もう分からなかった。

青い影に包まれた作業机で、報告書をシュレッダーに送ったあとの指先を見つめるたきな

次の紙には、少し長く目を通した。

出動時刻。現場の状況。帰還時刻。
二人とも、帰ってきた日だった。

帰り道に、何を話しただろう。
千束は、またどこかへ寄ろうと言っただろうか。自分は断ったのか、それとも、何か言いながらついていったのか。

欄の下まで読んでも、何も浮かばなかった。

特記事項なし。

たきなは、その一行へ目を戻した。

何もなかったわけでは、ないはずだった。
千束が隣にいて、自分もそこにいた。任務を終えてから帰り着くまでに、声を聞かなかったはずはない。

けれど、書いたのは自分だ。

残す必要はないと判断した。
あのときは、本当に、それでよかった。

紙の角を持つ指に、力が入った。

千束の心臓のことを知ってから、何度、思い返そうとしただろう。
何でもなかった日のことを。
急いで帰ろうとした道や、聞き流した話を。

そのときには、もう一度欲しいと思うような時間だとは知らなかった。

たきなは紙を機械へ送った。
刃が回る。指先へ伝わるかすかな震えが、すぐに途切れる。

一枚減った机を見ても、片づいた気がしなかった。

束の中から、リコリコへ来たばかりの頃の日付が出てきた。

余分な記述はない。
訂正もない。
任務の遂行だけを記した、簡潔な文章だった。

あの頃は、こういう報告を書くことができればよかった。
成果を上げる。必要とされる。次の任務を与えられる。
その繰り返しの先へ戻ろうとしていた。

今は、この短い文章のどこにもいない千束を探している。

たきなは、初めの行から読み直した。
二度読んでも、同じことしか書かれていなかった。

これも、処分していい紙だった。

下端を揃え、シュレッダーへ近づける。
手放す前に、もう一度だけ日付を見た。

そのとき、たわんだ紙の裏から、朱色が透けた。

刃に触れる直前で、手を止める。
引き戻して裏返すと、下半分の余白に、大きさの揃わない字が並んでいた。

千束の書き込み『ここの店、美味しそう!』

千束の書き込み『たきな、今度ここ行こうよ!』

店名の横には星があり、その下には矢印があった。最後の一行は、場所が足りなくなったらしく、斜め上へはみ出している。

たきな「……千束」

呼ぶつもりで口にした名前ではなかった。
カウンターの向こうでは、水の流れる音がしていた。


2.あの頃の「今度」

報告書に落書きをしないでください。
そう注意したことは、覚えていた。

千束は赤いペンを持っていた。訂正用に置いてあったものだ。たきなが差し出した手へ、返す前にもう少しだけ、と何かを書き足した。
その先は、よく思い出せない。

赤い文字の隣に、黒い文字があった。
行を乱さないよう、隙間へ小さく収められている。

たきなの書き込み『検討します』

自分の字だった。
いくつかの店名には、黒いチェックもついていた。

一つの印へ指を置いたとき、青い皿が浮かんだ。
パンケーキの店だった。千束は注文を決めるまで散々迷い、ようやく選んだものが届くと、今度はこちらの皿を見た。

千束「たきなのも、一口ちょうだい」

そう言って、自分の皿からは、果物の載ったところを寄越してきた。
フォークの先にクリームが残っていた。窓からの光が眩しくて、千束は少し目を細めていた。

帰ってから、この印をつけた。
ファイルを開き、紙を取り出し、裏返して。

隣のチェックは、別の日のものだ。
その日にも、自分はまた、この紙を取り出した。

たきなは、二つの印を見比べた。
怒っていたはずだった。
任務と関係のないことに、興味などないつもりだった。

それなのに、返事をしていた。
出かけたあとには、ここへ戻ってきていた。

紙の端に薄い折り目がある。指で伸ばすと、その部分だけ少し柔らかかった。
捨てるつもりで取り出した紙を、昔の自分は、何度も開いていた。

赤い矢印の先に、まだ印のない店があった。

千束の書き込み『今度はこっち!』

たきなは、その二文字を見つめた。

今度。

この字を書いたときにも、千束の胸には、あの心臓があった。
自分は知らなかった。
目の前の人がどんなものに命を預けているのかも、やがて、その命に残された時間を聞かされる日が来ることも。

次に会う。次に出かける。
その「次」がなくなるかもしれないと知ったあとで、この文字を見つけてしまった。

あの日の千束は、ただ一緒に行きたかったのかもしれない。
おいしそうな店を見つけて、たきなを誘った。それだけだったのかもしれない。

そこへ、自分はこう返した。

検討します。

予定を確認してから。
用事が済んでから。
そのうち、時間ができたら。

黒い文字の終わりに、ペンを止めた小さなインクの溜まりがあった。
そんなところまで残っているのに、千束がこれを読んだ顔は思い出せなかった。

どんな顔を、したのだろう。

今なら、行きますと書ける。
けれど、ここへ書き直しても、あの頃の千束が読むわけではない。

たきなはペンに手を伸ばしかけて、やめた。

報告書の裏に残った朱色の書き込みと黒いチェックに指を添え、静かに読み返すたきな

カウンターで食器の触れる音がした。
顔を上げると、棚の前に千束がいた。カップを二つ取り出している。
見慣れた横顔だった。

心臓をめぐる危機は、もう越えた。
千束は戻ってきた。こうして、同じ店にいる。

それを確かめてから、たきなは紙へ目を戻した。
ほんの少し前まで、あの場所が空いたままになる未来を考えていた。
目の前にいる人のいない日々を、考えずにはいられなかった。

まだチェックのない店が、三つあった。

しかし、シュレッダーは沈黙していた。


3.予約票

豆を挽く音が聞こえた。
短く続いて、止まる。
やがて、紙粉の乾いた匂いに、コーヒーの香りが重なった。

千束「たきな、お疲れ。ちょっと休も」

千束がカップを二つ持ってきた。
置く場所を空けようとして、たきなは紙を引き寄せた。シュレッダーの口から、離れたところへ。

千束「あ、見つけた?」

懐かしそうな声だった。
たきなは紙を押さえたまま、顔を上げた。

たきな「覚えているんですか」

千束「うん。それ、たきなへの予約票なんだよ」

すぐには、返事が出てこなかった。

二つのコーヒーカップが並ぶ机で、紙の書き込みを指して笑う千束と、顔を上げかけるたきな

千束の指が、赤い文字のそばへ降りてきた。
あの日、ペンを持っていた手だった。今はすぐ隣で、指先の影が、たきなの小さな返事に重なっている。

千束「先に入れとかないと、予定埋まっちゃうでしょ。たきな、仕事ばっか入れるからさ」

受け皿が机に触れた。
たきなは、ようやく口を開いた。

たきな「……何日とも、書いてありませんが」

千束「そこは、あとで相談ってことで」

千束が笑う。
たきなの視線は、わずかに下がった。
カップを置いて身を起こす、その胸元へ。

服の上からでは、何も分からない。
あの頃も、そうだった。
千束はこんなふうに笑いながら、こちらの返事を待っていた。

たきなはカップの持ち手に指をかけた。
持ち上げずに、また離す。

あの心臓のことを知る前に、もう少し。

続きは、言葉にならなかった。
千束に何かを言ってほしいわけではなかった。この顔を曇らせたいわけでもない。
ただ、紙に残った「今度」が、今ここで聞く声と同じ明るさなのが、苦しかった。

千束「これ、行ったね」

千束の指がチェックに触れた。

たきな「はい」

千束「こっちは、まだだ」

たきな「……はい」

千束は、その店名を少しの間眺めた。
たきなは横顔を見ていた。どんな顔であの返事を読んだのか、尋ねることはできた。
けれど、尋ねなかった。

湯気が、二人の間でほどけていく。

千束「片づけの途中だった?」

たきな「もう、終わります」

たきなは引き出しからハサミを出した。
紙を表へ返し、記載が終わる位置を確かめる。落書きは、その下の余白に収まっていた。

刃を入れる。
乾いた音が、小さく続いた。

千束は何も言わずに見ていた。
たきなは赤い文字を切らないよう、紙を持つ指を少しずつずらした。最後の端を切り離すと、急に小さくなった約束が、机に残った。

報告書の部分だけを、シュレッダーへ送る。
二人の名前が、もう一度、細い口へ沈んでいった。

手元には、千束の字がある。
名前を書いた欄などなくても、誰のものか分かった。


4.終わってしまわないように

秋の陽が、机の端へ届いていた。
たきなは切り口を指で整え、まだチェックのない項目へ触れた。

たきな「……効率的ではありませんね」

いつもの声にしたつもりだった。
一枚ずつ確認して捨てていた紙を、今は、文字を傷つけないよう切り分けている。

千束「予約の仕方?」

たきなは答えず、紙を揃えた。

たきな「でも、まあ……いいです。次はどこに行くか、考えておきますから」

千束「やった」

千束は笑った。
それからカップを持ち、カウンターへ戻っていく。

たきなは、その背中を見送った。
千束はただカウンターへと戻っていくだけ。
それでも、向こうで足を止めるまで、紙へ視線を戻せなかった。

カップに手を添える。
手のひらが温かくなった。指先には、紙の切り口の感触が残っていた。

まだ、三つある。

どこから行ってもいい。
千束が迷うなら、また待っていればいい。メニューを何度も開き直しても、一口欲しいと言われても。

たきなは、印のない場所へ指を置いたまま、しばらく動かなかった。
いつかここにもチェックをつける。
そのとき、残りは二つになる。

カップを置き、ペンを取り出した。
古い約束の下には、わずかに余白があった。

先日、買い出しの途中で見かけた店の名前を書く。
窓際に、二人で座れそうな席があった。千束を連れてきたら、きっと菓子を選ぶのに時間がかかる。

場所を書き添え、その下へ、もう一行。

たきなの書き込み『今度、千束と行く。』

ペン先を離した。

同じ言葉を、自分も書いていた。

切り取った約束の紙を片手で押さえ、残された余白へ新しい一行を書き足すたきな

カウンターの向こうで、千束が鼻歌を歌い始めた。途中で節が曖昧になり、少し戻って歌い直す。
たきなは、その声を聞きながら、インクが乾くのを待った。

紙の上には、まだ場所がある。
小さく書けば、もういくつかは入る。

折り目が文字にかからないよう、丁寧に折った。
胸ポケットへしまい、上から一度だけ指で押さえる。

千束「たきな、コーヒー冷めちゃうよ」

たきな「……今、いただきます」

顔を上げると、千束がこちらを見ていた。
たきなはカップを持ち上げた。

予約は、先に入れておかないと。

リストが終わってしまわないように。

秋の光が差す喫茶リコリコでカップを持ち上げるたきなと、カウンターから彼女を見る千束

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

千束とたきなの物語を、もう少し

二人の心の距離を描いたSSとして、「井ノ上たきなの孤独の正体――千束が示した『不完全でもいられる居場所』」もどうぞ。

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