あらすじ|結束バンド、鍋を囲む
肌寒い日の練習帰り、虹夏ちゃんの家で鍋パーティーをすることになった結束バンド。おいしそうな牛肉、湯気の立つ豆腐、楽しそうな三人――けれどぼっちちゃんの頭の中では、肉を取るタイミングを巡る壮絶な心理戦が始まっていました。
リョウの予測できない箸運び、喜多ちゃんのまぶしい親切、虹夏ちゃんの隙のない鍋さばき。最後の肉が一枚になったとき、四人の意外なこだわりが明らかに……? 『ぼっち・ざ・ろっく!』の四人を描く、少しおかしくて温かな日常SSです。
作品公式サイト:TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』

1.肉を取るにも作戦がいる
鍋のふたが持ち上がると、白い湯気がふわりと広がった。
白菜の甘い匂い。薄く切った牛肉。つやつやしたしめじの傘。その隣には、角のきれいな豆腐が肩を寄せ合っている。
練習帰りの冷えた指が、お椀を包むだけでほどけていく。虹夏の家のテーブルには、四人分の取り皿と飲み物が並んでいた。
伊地知虹夏
「よーし、できた! もう食べられるから、好きなの取ってね」
喜多郁代
「わあ、おいしそう! 虹夏先輩、ありがとうございます!」
山田リョウ
「肉がいい」
伊地知虹夏
「第一声それ? まあ、今日はちょっと奮発したけど」
その言葉に、後藤ひとりの背筋が伸びた。
奮発。つまり、貴重品である。
後藤ひとり(心の声)
(好きなの取ってね……。来た。自由を与えられたうえで人間性を試される形式……!)

家で食べる鍋なら、肉を取っても何も起きない。せいぜい妹と取り合いになるくらいだ。
しかし、ここは友人宅。しかも、相手は同じバンドのメンバーである。明日からも一緒に音を出す人たちだ。たった一枚の牛肉によって、ギタリストとしての立ち位置が変わる可能性を、ひとりは否定できなかった。
後藤ひとり(心の声)
(開幕から肉に行くのは強欲すぎる……。普段は何も言わないくせに、こういうときだけ積極的なんですね、って……。いや、野菜だけでも駄目だ。気を遣わせたら、それはそれで場の負担に……)
コトコト、と鍋が鳴る。
ドクドク、と心臓が応じる。
家に招かれ、夕飯まで用意してもらい、そのうえ勝手に追い詰められている。ひとりの社交は、燃費が悪かった。
喜多郁代
「ひとりちゃん、飲み物そこに置いて大丈夫?」
後藤ひとり
「あっ、はい……。退路は、空いてますので……」
喜多郁代
「退路?」
伊地知虹夏
「お皿置く場所のことじゃない?」
後藤ひとり
「そ、それです……」
虹夏の解釈に命を救われながら、ひとりは鍋を見た。
手前の白菜。その裏側に、食べやすそうな牛肉が一枚ある。
まず白菜を取る。続けて、偶然そこにあったかのように肉を添える。野菜が主目的で、肉は付随物。これならば、誰の記憶にも残らない。
ひとりは取り箸を握った。
後藤ひとり(心の声)
(三秒後……。虹夏ちゃんが飲み物を持って、喜多さんがそっちを見た瞬間に……!)
三。
二。
リョウの取り箸が伸びた。
白菜の裏から、牛肉だけがすっと消えた。
山田リョウ
「うま」
一。
ひとりの取り箸は、誰もいなくなった白菜の前に到着した。
伊地知虹夏
「ぼっちちゃん、白菜好き?」
後藤ひとり
「あっ、はい……。隠れる場所が、多くて……」
伊地知虹夏
「食べる話だよね?」
2.善意は計算に入らない
最初の白菜は、よく煮えていた。
出汁を吸った葉を噛むと、甘みがじんわり広がる。おいしい。おいしいのだが、このまま白菜だけで夕食が終わるのは、さすがに避けたい。
ひとりが第二作戦を立て始めると、リョウは今度、しめじを続けて取った。
一本。また一本。肉には目もくれない。
後藤ひとり(心の声)
(急にしめじに……? 肉への関心を失ったと思わせて、こちらの警戒を解く作戦……?)
山田リョウ
「しめじもいい」
ただの感想だった。
ひとりには、簡潔すぎて逆に真意が読めなかった。
そのとき、隣の喜多がひとりのお椀をのぞき込んだ。
喜多郁代
「あれ、ひとりちゃん、まだお肉食べてない?」
発見された。
後藤ひとり
「い、いえ、その、今は少し、野菜を中心にした生活を……」
喜多郁代
「そうなの? じゃあ、お肉は少なめがいい?」
後藤ひとり
「あっ、お肉は……食べたいです……」
食欲が、設定の維持に勝った。
喜多は笑って、ひとりのお椀へ取り箸を運んだ。牛肉を一枚。白菜としめじを少し。最後にお玉で出汁を足す。

喜多郁代
「はい、どうぞ。こっち側、ちょっと遠いもんね」
後藤ひとり
「あ、ありがとうございます……」
喜多郁代
「熱いから気をつけてね」
肉がある。
ほんの数秒前まで、幾重もの障害に守られていた肉が、自分のお椀にある。
後藤ひとり(心の声)
(私が十分くらいかけて考えていたことを……笑顔ひとつで……)
ひとりは肉を口へ運んだ。
柔らかい。脂の甘さと出汁の香りが広がって、思わず肩が下がった。
後藤ひとり
「……おいしい」
喜多郁代
「ね!」
喜多が、まるで自分で作ったみたいに嬉しそうに笑う。
ひとりはお椀を少し持ち上げ、口元を隠した。肉を食べた感想に、こんなに明るい返事がついてくるとは思っていなかった。
向かいでは、虹夏が鍋の縁に集まったアクを取っている。
伊地知虹夏
「喜多ちゃん、そっちの取り皿、もう一枚使っていいよ。リョウ、しらたき全部そっちに寄せないで」
山田リョウ
「育ててる」
伊地知虹夏
「畑じゃないんだから」
言いながら火を弱め、空いたところへ白菜の芯を足す。次に小皿を喜多へ渡し、ちょうどよく温まった豆腐をお玉ですくった。
一切の停滞がない。
豆腐はきれいな形のまま、虹夏のお椀に収まった。
後藤ひとり(心の声)
(すごい……。盤面を管理しながら、自分の手番も逃さない……。私は白菜一枚取るのに、人生を振り返ったのに……)
視線に気づいた虹夏が、お玉を少し持ち上げる。
伊地知虹夏
「ぼっちちゃんも豆腐いる?」
後藤ひとり
「あっ、私はまだ、その領域には……」
伊地知虹夏
「豆腐の話してるよ?」
3.最後の一枚と、長すぎるしらたき
鍋の中身が減っては足され、空いた皿が重なっていく。
喜多が学校であったことを話し、虹夏が笑い、リョウが時々、話の本筋から半歩ずれた感想を挟んだ。
ひとりも二度ほど相づちに成功した。三度目は声が鍋の音に負けたが、喜多が顔を向けてくれたので、もう一度言えた。
そんな時間が続いたあと、肉の入っていた皿が空になった。
鍋には、牛肉が一枚だけ残っている。
誰の取り箸も伸びない。
後藤ひとり(心の声)
(最後の一枚……! 途中の一枚とは責任が違う。取った瞬間に、肉のある世界が終わる……!)
リョウは鍋の右側を見ていた。喜多はスマートフォンを手に取りかけ、虹夏は追加の野菜を残していないか確認している。
ひとりは、お椀の縁を指でなぞった。
自分は喜多に取り分けてもらった。そのあとも二度、肉を食べた。リョウはもちろん、喜多も食べている。
けれど、虹夏が肉を口に運んだところは、あまり見ていない。
火加減。取り皿。飲み物。誰かが何かを取るたび、虹夏は別のことをしていた。
後藤ひとり
「あ、あの……。最後の、虹夏ちゃんが……食べた方が……」
伊地知虹夏
「え、いいの? ぼっちちゃん、もうお肉いらない?」
後藤ひとり
「い、いりますけど……」
全員が一瞬、止まった。
ひとりの耳が赤くなる。
後藤ひとり
「ち、違うんです! いらなくはない、という意味で……! 虹夏ちゃん、さっきから、お玉とかお皿とか持ってて……お肉、あんまり……」
最後の方は、お椀に向かって話していた。
喜多郁代
「そういえば、ずっとやってもらってましたね。私、次の取り分けやります!」
伊地知虹夏
「ありがと。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
虹夏が笑い、取り箸を伸ばす。
その顔を見て、ひとりはようやく息を吐いた。
牛肉が持ち上がった。
その下から、しらたきがついてきた。
一本、二本、という量ではない。肉の折り目に引っかかった白い束が、鍋の右側から延々と立ち上がってくる。
山田リョウ
「あ。そこ、私の」
伊地知虹夏
「しらたきに所有権つけないで」
山田リョウ
「今が食べ頃」
伊地知虹夏
「じゃあ取って! お肉が帰ってこない!」
リョウが小皿と取り箸を差し出す。虹夏は肉を鍋のすぐ上で支え、しらたきがほどけるのを待った。

二人の取り箸の間に、細い白い橋ができる。
ひとりは、その橋を見つめた。
後藤ひとり(心の声)
(私が肉を譲ったせいで、領土問題に……)
喜多郁代
「待ってください、そのまま……!」
スマートフォンが持ち上がる。
伊地知虹夏
「喜多ちゃん!?」
喜多郁代
「あっ、すみません! 撮るところじゃなかったです!」
喜多は慌ててスマートフォンを置き、空いた取り皿を二人の間へ滑らせた。
ようやく牛肉としらたきが分かれる。
虹夏のお椀に肉が落ちるまで、誰も次の具材を取れなかった。
最後の一枚は、ひとりの想定を超える大仕事になった。
4.同じ鍋を、別の角度から
伊地知虹夏
「……で、何でこんなにしらたき寄せてたの?」
ようやく肉を食べた虹夏が尋ねると、リョウはお椀の中を見たまま答えた。
山田リョウ
「肉の近くで煮ると、おいしい」
伊地知虹夏
「それでずっと待ってたんだ」
山田リョウ
「しめじを食べながら」
ひとりは顔を上げた。
肉への興味を失ったふりでも、相手を油断させるための陽動でもなかった。しらたきを待って、しめじを食べていただけだった。
後藤ひとり
「じゃ、じゃあ……最初のお肉も……」
山田リョウ
「煮えたから食べた」
後藤ひとり
「な、なるほど……」
高度な読み合いの対戦相手が、そもそも参加していなかった。
虹夏は空になった具材の皿をまとめながら、鍋の火をもう一段弱めた。
伊地知虹夏
「私は、白菜の芯を先に入れたいんだよね。葉っぱと一緒だと、そっちばっかりくたくたになっちゃうし」
喜多郁代
「だから、お皿で分けてたんですね!」
伊地知虹夏
「あと、豆腐はあんまり動かしたくない。崩れるから。リョウが右にしらたき集めるから、さっき置き場所なくなったけど」
山田リョウ
「隣、空いてた」
伊地知虹夏
「空いてたんじゃなくて、空けてたの!」
ひとりは鍋を見直した。自分にはただの空白に見えていた場所にも、虹夏の予定があったらしい。
喜多が、伏せていたスマートフォンに指を添える。
喜多郁代
「私も、撮りたいタイミングをずっと見てたんです。四人のお椀がそろって、湯気もきれいに出てるときに、一枚だけ」
伊地知虹夏
「ああ、だからさっき」
喜多郁代
「あれは、しらたきが思ったより長くて、つい……。でも、その前から撮ろうとは思ってて。誰かのお椀がいっぱいになると、誰かが食べ終わっちゃうんですよね」
山田リョウ
「難しいね」
伊地知虹夏
「たぶんリョウが一番難しくしてる」
リョウは静かにしらたきを食べた。
その隣で、ひとりは自分の取り箸を見下ろした。
後藤ひとり
「み、皆さんも……いろいろ考えて、食べてたんですね……」
喜多郁代
「ひとりちゃんも、何かあるの?」
後藤ひとり
「私は……その……肉を取るときに、野菜を一緒に取れば、お肉ばかり狙ってるとは思われないかな、とか……」
口に出すと、予想以上に情けなかった。
後藤ひとり
「あ、あと、皆さんの手が動いてないときに取ると、目立つので……誰かが飲み物を飲む瞬間に……」
伊地知虹夏
「そんなこと考えてたの!?」
山田リョウ
「ぼっち、全員見てたんだ」
後藤ひとり
「す、すみません……監視するつもりでは……」
山田リョウ
「だから虹夏の分、気づいたんだね」
ひとりの口が、半端に開いたまま止まる。
虹夏は空になった自分のお椀を少し上げてみせた。
伊地知虹夏
「おいしかったよ。ありがと、ぼっちちゃん」
後藤ひとり
「……い、いえ」
ひとりは視線を落とした。お椀の底に、小さなしめじの欠片がある。さっきまで気づかなかったのに、今はそれをやけに熱心に見つめた。
喜多郁代
「でも、食べたいものあったら言ってね。遠いところなら取るし」
山田リョウ
「しらたきも分ける」
伊地知虹夏
「もともとみんなのだからね?」
笑い声が、鍋の上を通っていく。
ひとりは、手前に残った豆腐を見た。
まだ温かそうだった。少し出汁を吸って、縁が薄い茶色になっている。
後藤ひとり
「あの……。その豆腐、食べたいです……」
伊地知虹夏
「うん、どうぞ」

それだけだった。
許可のあとに、審査も評価もなかった。喜多は空いた皿を重ね、リョウはしらたきの最後の一本を探している。
ひとりは取り箸を伸ばした。
豆腐の角が、ほろりと欠ける。
後藤ひとり
「あっ……」
伊地知虹夏
「はい、下から」
横からお玉が添えられた。
豆腐はそれ以上崩れず、ひとりのお椀へ収まった。虹夏は何事もなかったようにお玉を戻し、喜多の学校の話の続きを聞いた。
ひとりも、少し冷ましてから豆腐を食べた。
柔らかくて、熱かった。
豆腐ひとつ取るだけのことが、本当に、豆腐ひとつ取るだけで終わった。
5.締めの一票
具材をすっかり食べ終える頃には、窓の外が暗くなっていた。
テーブルの上には、空のお椀と重なった小皿。さっきまで忙しく往復していた取り箸も、今は休んでいる。
ひとりは小さく息をついた。
疲れた。
練習とは違うところを、ずいぶん使った気がする。主に、使わなくてもよかったところを。
それでも、上着を取ろうとは思わなかった。温かいお茶をもう少し飲んで、三人の話を聞いていたかった。
喜多郁代
「楽しかったね、ひとりちゃん」
後藤ひとり
「あ……はい。おいしかったです……」
喜多郁代
「またやりたいね」
ひとりはうなずいた。今度は、間が空きすぎる前に。
次に来るときは、最初から肉を一枚取ってもいいのかもしれない。白菜を盾にしなくても。
そう思うと、肩に残っていた力が少し抜けた。
伊地知虹夏
「じゃ、そろそろ締めにしよっか。ご飯あるから、卵落として雑炊に――」
ことり。
リョウが、袋入りのうどんをテーブルに置いた。
山田リョウ
「うどん」
伊地知虹夏
「いつの間に出したの?」
山田リョウ
「持ってきた」
伊地知虹夏
「持参なら最初に言ってよ! ご飯用意してあるのに」
喜多郁代
「あっ、私も! これ、最後に合うかなって」
喜多の鞄から、小さな保冷バッグが出てきた。中身はチーズだった。
喜多郁代
「雑炊に入れたら、リゾットみたいになりませんか?」
伊地知虹夏
「それもおいしそうだけど……まず普通の卵雑炊にして、チーズはお椀で足す?」
山田リョウ
「うどんが残る」
伊地知虹夏
「リョウが食べれば残らないでしょ」
山田リョウ
「この出汁で食べたい」
リョウは鍋を見つめていた。
食事の途中で見た目と、同じだった。しらたきを育てていたときの、あの目だ。
ひとりは、そっとお茶を飲んだ。
雑炊。うどん。チーズ。
どれもおいしそうだ。三人が話している間は、自分は聞いていればいい。ようやく覚えた安全な場所である。
伊地知虹夏
「ぼっちちゃんは、どれ食べたい?」
お茶が、喉の途中で止まった。
喜多郁代
「うん、ひとりちゃんの食べたいのにしよう!」
山田リョウ
「ぼっち」
リョウがうどんの袋を、少しだけこちらへ向けた。
伊地知虹夏
「無言で推さない」
三人の目が集まる。
ひとりはお椀を見た。もう、隠れるための白菜すら残っていない。
後藤ひとり(心の声)
(さっきまで、自分の豆腐を選んでいればよかったのに……! いきなり四人分の未来を……!?)
卵雑炊を選べば、うどんが悲しむ。うどんを選べば、準備済みのご飯が行き場を失う。チーズを選んだ場合、そもそもそれは主食への回答として成立するのか。
鍋が、コトコトと鳴った。
ひとりの心臓が、律義にテンポを合わせる。
後藤ひとり
「あ、あの……投票って、匿名では……」
伊地知虹夏
「一人しか投票しないよ?」
結束バンドの鍋会は、まだ締まらない。

同じ鍋を囲んでも、気になるところは四人それぞれ。次の鍋会では、ひとりが最初の一枚を取れるでしょうか。
結束バンドの、もうひとつの日常
ひとりの脳内作戦と、仲間たちとのにぎやかなやり取りをもっと読みたい方は、「ひとりのバイト奮闘記と倒れる系読者モデルの誕生」もどうぞ。
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※本記事は『ぼっち・ざ・ろっく!』を題材にした非公式の二次創作です。原作・公式とは関係ありません。鍋会の出来事や食べ方のこだわりは、本SS独自の創作です。




